解釈

終わり方の解釈をずっと考えていて、やっと納得する解釈ができた気がした。というか、ひっきーの解釈が、とても納得するものだった。

そもそも、俺が何故あそこまで絶望したのか。受け取り方が、それに対する反応がわたしだと言われて、わたしのせいで物語が終わってしまったんだって。
茶太朗の「辛い?」「辛いか?」「悲しいか?」「悲しいよな」という言葉に対して、当たり前だろと怒った俺は、言葉をちゃんと受け入れられなかったわたしのせいで、でも、あそこは怒るしかなかった。
それは、わたしの、PLの方のわたしの、特性なのかもしれない。

めぇーちゃんのことを想いすぎていた。長い孤独に対して寄り添ってくれていためぇーちゃんが、心の拠り所だった。そこまでは、よかった。
床にへたり込んで、沈黙するわたしに対して、背中をさすってくれた茶太朗。なんと声をかけるか、悩んで悩んで声をかけてくれた茶太朗。
それに対して、怒りで返してしまったこと。
受け止められない悲しみが来たときに、怒りで返してしまった。
ちゃんと受け入れられない。わたしが悪いのか。

それをわからないと言った茶太朗。
それに対して、お前にはわからないって突き放して、背中をさすってくれた茶太朗を、お前に何がわかるんだって殴り飛ばして、本当に最低だ。
茶太朗は、ごめんって何回も言ってて、でもそれが聞こえてなかった。どこを殴ったのか考えている中で、もう、周りが何も見えなくなってて、自分の悲しみをうまく処理出来なかった。茶太朗を完全無視し、それでもなお、寄り添ってくれる茶太朗のことも無視した。

「わたしはもうずっといるよ。わたしはどこにも行かない。もうめぇーちゃんとずっといるよ。ねえ、めぇーちゃんって話しかけ始める。」

茶太朗がいなかったら、めぇーちゃんは死ななかった。人間がいて、面白がって、ウキウキでお散歩した、自分を責めた。それは、「ねえ、人間!!」と興味をもってしまった、あたしちゃんの悲しみを受けて、それに絶望した俺。


でも、俺だけの絶望が、世界を滅ぼすのが、わからなかった。


そこで、さらなる解釈。
シュブニクラスとして、自分を再認識し、茶太朗を生かしたのが過去の自分、あたしだとわかったのならば、あたしは、絶望の淵から落ちて、死ぬだろう。世界を巻き込んだ自殺。
死ねない、死なない、死んでしまいたいと、死に向かう俺を引き留めたあたしが、感じてしまった、あまりにも深い絶望。それは、めぇーちゃんと、わたしと、俺っちとおしゃべりを楽しむ日々を望んでいたあたしが、自分でその日々を壊したという絶望。望んでしまった死。他人のせいにした、自分のせい。
そうだとしたら、世界は滅びるでしょう。
ねえ、世界は滅んだよ。

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