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『ゲイシャ(オートエスノグラフィックな何か36)』

私が学生時代にしていた仕事は、英語ではエスコートと呼ぶことも可能だそうだけれど、直訳可能なワードがない。由緒正しい言い方では、ゲイシャ。ゲイシャって、古典を唄えて古典楽器も弾けるキモノを着て古典を踊るダンサーなので、私はそんな上等では、もちろんなかった。打楽器持ってカラオケしてチークやボックスダンスくらいは出来たけど。しかし、それもまた日本の伝統芸能である。

基本的には、隣に座って一緒に酒を飲むおねえちゃん、だった。全く触らせなくても稼げる人は稼げるし、客と寝ても稼げない人は稼げない。コミュニケーション能力勝負。政治や社会情勢に詳しければ、稼ぎは上がる。そもそも、脱いで寝転がれば稼げるなんて、幻想である。

同業者と飲むと、乾杯するだけでバレた。どうしてかというと、客のグラスより、自分のグラスを下げて、グラスを合わせて乾杯するのが礼儀で、そうするように訓練されていたから、乾杯の時のグラスの出し方で、バレるんである。フィールドワーク開始してからも、女装の皆さんには、バレまくった。

私はヒールなんて履いたことないと、こちらでも思われているけれど、ピンヒールでカツカツ歩けたし、奈良女勤務の時代も、10センチのピンヒールのピッタリしたロングブーツとか履いてたし、千葉大に移動してからも、しばらくは、それなりの高さのを履いていたし、オランダであったWPATHに素足に布地のヒールで行って、アムステルダムをカツカツ闊歩したりしていた。

ポールダンスのあり得ない高さのヒールなんて、足首挫いちゃう怖すぎる絶対無理、と、ついこの間まで思っていたんだけど、ヒール履いて練習するクラスの高度目のやつに出て、歩くしかしようがないってなったら、歩けた。あれ、歩けるやんって、自分でもビックリしたけれど、そりゃ歩けるやろ、である。

私はもともとイージーゴーイングだったし、人の客を取るつもりとか全くなかったので、同僚のお姉さんたちに重宝されていた。アフターのお供にも引っ張りだこだったけど、夜中にあんまり食べたくないし、高いものを食べるのにも、あんまり興味無いし、適当にしてさっさと帰っていたが、むしろその感じが良かったみたい。

同伴もたまにはしていたけれど、勉強が忙しくて、あんまりやる時間がなかった。

もちろん、ご馳走になったら「こんなもの食べたことなかった、人生で初めて食べた」みたいなことは、必ず言ってたし、でも、何だかその、一応、言うべきだとされてることは言うし、それなりに愛想も良いし、小難しい話も達者だけど、なんとなく白けているところが良かったようで、それなりに人気だった。携帯も持ってなかったので、営業の電話とも全くの無縁だったが、常に、会いに来てくれたり、来ると必ず席に呼んでくれる人たちがいた。

色んな系統の店で働いてみたが、カウンターの中だけの、時給は結構安いが楽な店で働いてたのに、近所の姉妹店のギャル系でノルマのある本気のキャバレーの人が足りない時のヘルプに使われて、なんだか重宝されて、カウンターの中の給料で、出勤すると必ずキャバ嬢やらされるのに呆れて、辞めたり。引き抜きにもそれなりにあった。

どこでも化粧はしないといけないことになってたけど、嫌いだったので、鼻の頭の上とおでこの真ん中のみに、軽くファンデーションをはたいて、ダークレッドの口紅を引いて、眉毛を描くだけで見逃してもらっていた。照明が暗いし化粧しているように見えると、自分では思っていた。

最初の頃に働いた店でキチンと躾けられたので、ソファーに座っている客と一緒に座らないで話をする時には、床に膝を着けるとか、乾杯の時のグラスの出し方もそうだし、酒を作る時の所作とか、タバコを着ける火の差し出し方とか、そういう古典的な立ち居振る舞いが出来たので、どこの店でも重宝がられた。

大学院に行かないで、店に就職してほしいと、結構本気で言われた。最後に勤めたのは、みのもんたが常連の老舗だった。

そんなんで生活費を稼ぐだけでなく、留学する費用や、大学院に行く費用を貯めた。住んでた共同アパートは、二万三千円だったし、品川にも、そういうところは、今でも、まだある。

貧乏なので、自転車で30分くらいのところにあるパン屋さんの、食パンの端を分厚く切った、耳っていうか耳ってことになっている厚切り食パンが詰まった袋をタダでもらってきて、冷凍しておいて、食べる時に焼いて、ちゃんとしたクリームチーズ塗って食べたりして、山田詠美かよだった。そういう生活も、結構楽しんでいた。

大学に毎日行って、ダブルスクールして日本語教師の資格も取り、フィールドワークに精を出し、バイトにも毎晩行っていた。ダブルスクールする前は、バイトの前に23キロくらい自転車に乗り、店が終わった深夜過ぎから、インラインスケートするのに駐車場にたむろしたり、もともと精力的なタイプだったようだ。博士課程に入ってからか、DV的な関係に入ってからか、その精力的な感じも押し込められてしまっていて、自分でも忘れていた。

もちろん、美容師をする母の店の常連の芸者さんたちに可愛がられ、面倒を見てもらって育ったし、近所は飲屋街だったし、そういう環境で育ったことが夜働く抵抗を減らしていたとは思う。しかし、自分に向いていたので、負荷をかけずに働けたし、働きやすい時間だったし、続いたってだけの話だ。



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