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『壊れてる(オートエスノグラフィックな何か19)』

自分がめちゃくちゃ傷んでることに気がつきました。クリスマスのショーで、本当にど真ん中や、最前列の真ん中で一人だけ、後ろでも真ん中で一人だけ立ってポーズキメてるとか、まだ2回目なのに、ものすごく良いポジションを貰っていて、それなのに、評価されているという感覚はほとんどなかった。

皆んな、声をかけて、沢山色々褒めてくれるし、絶賛してくれたりして、何だかもの凄いんだけど、それが、ちょっとずつ体に染みている気がするけれど、いまいちピンと来てなくて、いつもボーッとしたり、キョトンとしていると思う。

人から評価されていると認識する感覚がぶっ壊れているんだなぁと思う。ダンスもそう。とんとん拍子に就職してもそう。こちらでの研究に関してもそう。日本で、誰にも彼にも叩かれてきたことも理由の一つであるのに間違いない。親にも一度も褒められたことのないこと(妹は実際にそう私に言っていた)、そして、24年後に追い出した相手には、外見も、仕事も、研究内容も、3回の就職も何もかも、一度も褒められず、否定されて続けてきたのが原因だとやっとわかった。

褒められて素直に嬉しいと思えない、というようなことでは全くない。評価されていると感じることのできる、何かが、感覚器官のようなものが、あるいは神経のようなものが、ぶっ壊れている。

発達傾向のある子どもを持つ、母である院生さんたちは、自分の子どもが学校などで問題を起こしたとき、学校の対応に対して、よく愚痴を言いっていたが、その中で「うちの子良いところも沢山あるんです」と私に言うのを聞くたびに、えもいわれぬ凄まじい気持ちになって、どうしようもなかったのを思い出す。それが、一番私が感じるとしんどいと思う、気持ちの一つ、だった。

それは、自分が、どんなに凄いことをしても、褒められなかったから、だと思う。絵画コンクールで日本で2番目になろうが、英語のスピーチで東北大会まで行こうが、アナウンスコンクールで優勝しようが、成績が良かろうが。とろい、にぶい、出来ない、と出来ないことばかり言われてきた。「私は一度も褒められたことがない」と訴える妹に、まるっきりアダルトチルドレンだし、私が褒められないのに褒められるわけないやん、と冷たく思っていた自分のわけのわからなさを恥じる。

自分が精神疾患だとか、病んでいるとか思うには、私の視点は相対化され過ぎているのだけれど、誉められたことを認識する感覚器官がぶっ壊れているというのは、生きていく中で幸せを感じるのが難しい、可哀想なことだと、自分で思う。人にそう言われるのは拒絶するし、私にそう言う人のことは、人でなしだと軽蔑するが。

とてもとても悲しいと思う。そのことを受け止められるのは、どんなに叩かれても叩かれても屈してこなかった自分の強さのおかげであるようだけれど、それでも、とてもとても悲しいと思う。

私には反抗期はなかった。追い出した相手にも、今でも反逆しないと信じられていると思う。

そうして今、誰に対しても、全方位的にファイトバックしたくて、気持ちが抑えられなくなっていると思う。人生で初めての、反抗期。というと可愛げがあるけれど、そんな可愛いものではない。それで済むのは思春期に起きるからだ。そんな可愛いものでは終わらない。終わらせられないし、絶対に終わらせない。我慢し過ぎた。


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