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『My Destiny and Destination(オートエスグラフィックな何か15)』

自分の経験と距離を取れるようになって、アルコールのことも、薬のことも、ちょっとずつ言えるようになっている。摂食障害についても、かなりわかってきていた。生きるための散財への自覚もある。でも、ワーカホリックなのとは、距離を取りきれてないと思う。それで、良いのか悪いのか、良い悪いの問題でないのか、それもまだよく分からない。

自分の被害経験を書いたり、私的なことを晒したりするのは、ある種の自傷行為であると思うけれど、誰かがそれをしないとそういう経験自体、世の中に対しては秘匿されたままになる。それに、言語化して人に伝えようともがかないと、自分でも訳がわからないままだったと思う。そういう意味で、こちらでジャーナリングが強く勧められているのは、自分の経験からも根拠があるように思う。

日本では自助グループが勧められているようだけれど、言いっぱなし聞きっぱなしの方が良いと思うかどうか自体、人それぞれ。自分にとって良いことが、誰にでも当てはまるわけではないこと自体が、誰のすることにでも当てはまる。被害経験を持っている同士であっても。同じように括られるであろう経験も、それぞれ多様に経験されているはずだし、話せるかどうかは向き不向きもある。話せるとしても、いつ可能か、どこでなら可能かも人それぞれのはず。

私は、異様に上昇志向が強いので、やってることが統合されて、上に登ることに繋がるように、今回も詰将棋をしていると思う。意識しているにしろしないにしろ。何をするにも基本的には詰将棋をしていて、しかし、そのこと自体に、倒れてスピークアウトし始めるまで、ほとんど気が付かなかった。

トランジションを始めたのは、いつなんだろう。Xジェンダーに振られてからかな。共同研究していた精神科医は当時、「つるたさん、首から下は大学の先生なのに、首から上はまるっきりFtMなんですけど」って私に言ってて、でも私自身は何のことかよくわかってなかった。自分がどういう姿してるかも、全身を鏡に映して見たことがなかった。鏡って、今でも、ほとんど見ないで生活してます。トイレにあったら、行った時に見られるけど、それでも、写真撮ってみようと思う時しか、ほとんど見てないと思う。

人生の間、ほとんどそうだったと思う。自分がどんな風に見えるかに、あんまり興味ないんだと思う。それか、単に見たくないのかも。見ても失望するとか、悲しいとか、残念とか? 自撮りもほとんどしたことなかった。

うっすらでも、そもそも、最終的に男性化するんだろうって、わかってたと思う。でも、そんなんで、小さいアジア人男性になることで、私のなりたい姿は、叶うものではない。その絶望感と共に生きてるのかもしれないですね。

こうやって、トランスとしての経験や、トランス研究をしていた経験と、自分の今していることの全体像を一つに結ぼうとするのは、バラバラだった経験を統合したいからだと思う。でも、もう一方で、消極的な理由で、○○になるしかないことを、選択しているのかも。

本当にしたいことって、なんなんだろう。

誰かに愛されながら、その人を私も愛して、労わりながら、生活することだって、思います。

それは、どこの誰で、どんな風に可能で、どこなら可能なのか、模索してるんだと思う。そのために、名誉を捨てること、自分の限界を突破したり、限界を知って退いたりすること、それらもしていると思う。稼ぐためにできそうなことを試したり、それとの関連で、私にとって住むところとは、帰る場所とは、何なのかを考えたり。

この結論に向かうこと自体、予言されていたようにも思う。ジュリア・セラーノに懺悔した次の日に、自伝を出してもらう交渉をして、まもなく決めたタイトルは、

On the Journey : Exploring My Own Identities

そうして、私は運命に導かれながら、自分の運命と目的地を、このタイトルにこめて自己決定した。だから、ともかく、それに向かって進む。そうして、だいたい書けたと思ったら、次の自分の運命と目的地を、再度自己決定する。

(2023年9月24日
心理学を研究する同志に宛てて)


p.s.
金曜日に、あなたは私のDestinyでDestinationだと、Rに伝えました。(10月30日)


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