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『性役割概念を放棄する(オートエスノグラフィックな何か 14)』

今回は、「性役割」という概念を分析に使うのを自明のやり方とせず、その概念の検討の不十分さに思いを馳せてみたい。以下に書いていくことは、一見、ジェンダーと関連しているようであるが、雑に考えても、より関係しているのはアカデミアの人間であること、かもしれない。

さて、ずっと不思議なのは、自分の考え方が極めて、いわゆる男性的なこと。これは、ミソジニー極まってるということではなく、マッチョって感じ。しかし、脳みそが筋肉というわけではない。むしろロジカルシンキング馬鹿。発達特性のせいもあるだろう。似たような女友だちは、日本では、基本的にはトランス、それかクイア、あるいは、アカデミアの中。

特に大学に進学したくらいからか、大学院に進学してから特に、周囲の男性の率がどんどん上がっていった。アカデミアが男社会だからだろう。

それと、女性には基本的にハブられてしまう。これは、小学生くらいからずっと。人とペースを合わせて行動できないし、人とベタベタしたくなくて、一人でいる方が気楽だから、という理由が大きいようだ。小学生中学生、高校生も、一緒にトイレに行く、一緒に教室移動する、加えて一緒に遊ぶ、みたいなことが友だちでいるノルマになる。それは、私には極めて難しかった。今も無理。ここでも無理。好きに一人で、ふらふらできることは、私には極めて重要。

加えて、私は自分の個人的な話を人にほとんどして来なかった。飲みにいっても、ひたすら社会問題を話す女友だちはというのは、日本では見つけるのは極めて難しい。インラインでも、自転車でも、ジャズでも、ラップやブラックミュージックでも、好きなお酒でも、気晴らしに読む本でも、趣味について話す、となると話せるのは、日本では基本的に男性になってしまう。

特に、日本での仕事生活の後半は、こんな生活だと専業主婦が居ないと回らない、みたいな愚痴しか出ないような生活だった。そうして、過剰に働くと、帰り道は真っ直ぐに帰ることができない。背負っているものが重過ぎて、下ろさないと帰れない。それで、仕事帰りにどこかに飲みに立ち寄り、リラックスするために飲み屋のカウンターに日々座るようになった。そうすると、できるのは、ほとんど男友だち。酒が強かった私は、一緒に深酒するので、ますますそうなった。

加えて、日本の大学教員は、中間管理職みたいな仕事内容だから、仕事の話をして話の合う異業種も男性の中間管理職以上になる。安い店であろうが、飲み友だちの社会的地位は高くなりやすかった。

ここで、一言言っておくが、私はここに書いていることが自慢になるとは全く思っていない。私にはそのようなメンタリティはない。これを自慢だと言う人は、私の書いていることを評価する、あるいは羨む視点を持っているはずだ。私はそれを持ち合わせていない。もちろんそういう視点があることはわかり、だからこそ、今段落を書けているのは、言うまでもない。

また、だからハラスメント体質なのだと批判する人がいかにもいそうだ。しかし、人の属性とその人の気質を結びつけて考えるのには、慎重さが求められることもまた、言うまでもない。

さて、そうこうしていると、結婚していてバイトをするくらいな女友だちの愚痴を聞いても、その対象の夫にしか共感できなくなった。生活費を稼ぐのを背負わせて、それかよ、みたいな。死ぬほど働いて、家族が生きるために稼ぎ、その義務を背負うのは、ものすごくキツイ。もちろん、妻がきついのもわかるし、そもそも男が一人で稼いで家族分の賃金を稼ぐことを日本政府や社会が奨励しているから、きつさが生まれてしまうのだけれど、その奨励に抗って生きている人というのは、実はそんなに多くない。

そんなだから、女友だちにハブられて、Bガールとして男友だちと遊んでいた私は、働く大人になって、ほとんどオヤジのような生活をしていた。中身が激烈なフェミニストなので、飲みながらフェミニズムやクイア関連知識の布教するのは、常だったけれど。それはむしろ、自分のジェンダー研究者としての戦闘能力を高める、良い訓練になった。

そうして現在、ここでの友だちのジェンダーには、そんな偏りはない。しかし、また時々、ダンスクラスの帰りに、ゲイバーのカウンターに座って、ノンアルコールのビールを飲んだりするようになり、観察をすると。。。現在、カウンターには、一人で来ている男性が2人と、ゲイカップル、そして私。そもそも、ここでさえ、一人で遅めの時間にバーにやってきて、カウンターで飲むAFABはそんなに居ない。

これを書いてから、観察を続けると、やっぱりそう。カウンターでは、メンズエクスプレッションがみんなスマホを手に一人で飲んでいる(こちらでは、両手で入力をするので、両手で持っている)。なお、私の住んでいるところには、ミックスのバーしかない。こちらでの通称がゲイバーなだけ。英語のゲイには、性別を含めずに同性愛を指す使い方もあることを、付け加えておく。

以上のことを、どう考えたらいいか、まだわからない。性役割という概念は、私には全くピンとこなくて、別の考え方に切り替えるべき課題として、そもそも存在していた。実際、私のジェンダー・アイデンティティの変化と、私のいわゆる男性的だとされる傾向は、関係していない。人を2つに分類して、そのらしさを役割という枠に収めようとするのが、そもそも難しい。私はノンバイナリーだしね。

そのため、ともかく、直観的に、性役割という考え方を採用するは、永遠にやめることにし、ともかくその方針を宣言する。なので、私の描くものに対して、性役割という考え方を用いて解釈するのをやめてほしい、とお願いもしておく。もし、できるのなら、スマートに私の書いたことを、性役割概念に当てはめてみてほしい。でも、無理だと思う。

また、こういう話を読むと、読んだ人の個人としての固有な経験に引っ張られがちだ。しかし、個々の経験の異同は、ここで検討したいことではない。私が検討したいのは、個々の経験の一般性をどう考えるか、である。

例えば、私の書いたので、しっくりする傾向があるなら

おっさん?的?

そうすると、世代とか、時代とか、ある種の職種とか、そういう限定がかかってくるので、何がしかの傾向だとは、言いやすくなるかもしれない。

マスキュリニティ、フェミニニティという概念は段階的に、グラデーションとして考えやすいかもしれないが、やはり、職種などの他の要素を組み込むのが難しそうだ、ということも、付け加えておきたい。

さて、次のステップとして、何をしましょうかね。

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