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『「トランスジェンダー入門」を読む際の注意点』

全文無料公開

この文章は、『試論「ジェンダーアイデンティティとは何か」再考』を書いた際に、一緒に書いたものです。試論には、そうは書かなかったのですが、タイトルの本の感想をベースにしたもので、今回書く内容はあえて外してありました。

理由は、今、私がこういうものを出すことで、反トランス勢力に加勢することになるかもしれない可能性に配慮をしたためです。バーンアウトした私は、自分の思いを書くこと(ジャーナリングというプロセスワーク)で復活しようと試みながら、それでも文章をいろいろな人に回して、意見をもらって調整をして、その結果を発表していました。

これは、アカデミアにいる間、ずっとしてきた作業です。それによって文章がブラッシュアップされますし、人とのやり取りの中でアイディアが出て、文章はリバイズされていきます。(この手法については、別稿に譲ります。)

一旦は引っ込めておくことにしたものの、「指摘しないこと」は、改善可能なことを諦めることです。また著者が持っている、改善する能力を損なうことです。私はこの本を出した同胞を批判するために、これを書いているのではありません。

いろいろな人のアドバイスを検討して、自分のために利用することは、誰にでも可能であり、それこそが自分自身を前に進ませます。一人一人がそうして進むことで、全体が前に進むと、私は信じています。

また、学問的には当たり前のやり方です。書かれたものを更新しようとして書かれる文章の積み重ねこそが、研究というもののあり方、そのものだと思います。

なお、この本がわかりやすく書かれていることで、いろいろ分からない人に紹介するにはうってつけだ、という評価が、私の周囲でもなされていることも、紹介しておきたいと思います。また啓蒙書として認識もされているようです。しかし、啓蒙書の中身に問題があったら、私はかなり怖いと思います。

以上を踏まえると、以下は、intermediateくらいの内容になるかと思います。教員が大学のゼミでテクスト指定したり、学生さんや研究者のみなさんでも、自分の学位論文のために発表などしたりする際に、気をつけていただきたい点です。今回は詳しくは書きません。つまりヒント集です。もっと詳しい解説を書く気持ちになったら、後日投稿したいと思います。


1
日本における病とはどのようなものか、ということ自体を検討する必要があるのではないか? 日本において「職業病」とか「心配性」とか、問題のあるものを、とりあえず病気的な何かとして扱うという傾向は、どれくらい特殊なのか? 他の国と同じなのか? もしそうなら、その他の国とはどこなのか?

2
トランスイシューは、日本の場合どういう問題か、ということを常に問う必要があるのではないか? 日本の均質性を要求する文化や、縦割り、ジェネラリスト思考、儒教の影響などにより、単なるトランスジェンダーイシューのせいには回収できない、現在の問題状況を引き起こす仕組みがあるはずだ。

実際、著者自身が、その日本的傾向自体を持ち合わせているのではないか? それが解説に織り込まれていないか?

3
トランスジェンダーの範囲が、かつてのトランスセクシュアルになっており、ノンバイナリーがもとのトランスジェンダーになってる。これらは日本の使用法に従った話ではあるが、北米の同じタームの使い方について、ケイト・ボーンステインが言っている通りだ。著者のこのカテゴリーの説明は、何をもとにしたものなのか? 時代限定的であることに配慮はあるか?

4
統計資料の使い方に問題はないか?
比較の因子はそろっているか?
さらに、地域性の検討はどうなされているか?

5
「本当のトランスジェンダー」
「本当のトランスジェンダー(性同一性障害)」
という表現を初めて見たが、このようなタームを提出することは、かえって問題を大きくするのではないか? なぜなら、この問題は多くの社会問題において、コミュニティの中を分断し、人びとを傷つけてきたから。このことに関する「真のTS」「本当の当事者」などの関連カテゴリーについての分析はすでにパブリッシュしてある。

6
ノンバイナリーや、ジェンダーノンコンフォーミングは、別なカテゴリーに混じって、かつてからLGBTQ+コミュニティの中に居た。

あるタームがどういう人を指すのかは、移り変わっていく、という点は要考慮。

7
「不可視化」というタームの使い方は間違っていないか?

8
トランスジェンダーとノンバイナリーの求めるものを分けることには大きな問題があるのではないか?

「求めるものが違う」という理解は何に基づいているのか? 何かの調査なのか? ならば、それは妥当なものか?

そもそも、トランスジェンダーとノンバイナリーの差異とは何か? 要考慮: 時代・地域・世代・出身階層・民族性・障害の有無

それでも差異があるのなら、それは何によって分けられているのか。

著者の理解は、二つは異なり、あるいは二極化しており、それぞれが、カテゴリー間では異なるけれど、カテゴリー成員には共通の「求めるもの」があるという理解をしているのか? 

そうであるならば、一般化を行わない形で、それらは提出できるのか? 

あるいは、そもそも、多様な性についての説明に、典型性を求めるのは問題にはならないか?

9
タームの使い方に問題はないか?
特に難しいとされているような語彙に注意。

以上です。

あわせて『試論「(ジェンダー)アイデンティティとは何か」再考』も、読んでいただけますと嬉しいです。


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