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現代の仏道修行『道元の習慣術』

日本曹洞宗の開祖・道元禅師――。
ただひたすらなる坐禅「只管打坐(しかんたざ)」を仏法であるとし、その実践を説き弘めた仏教の祖師です。曹洞宗の壇信徒の方々だけでなく、仏教により良い生き方を求める多くの人に慕われる人物であります。

主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』には、有名な次の言葉があります。

『仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。』

(現成公案 巻)

現代語訳すれば、「仏道をならうとは、自己をならうことである。自己をならうとは自己を忘れることである。自己を忘れるとは、一切の事物に(自己を)明らかにされることである。一切の事物に(自己を)明らかにされるとは、自己の身と心、他人の身と心を、自由の境地に至ることである。」となります。

不勉強な私の拙い解釈ではありますが、「ただ、ひたすらに坐ること(=只管打坐)」を仏法と説かれた道元禅師のお心と、一方で、「一切の事物に、自由な境地に至る自己をならう」ことを教えられたお心は、すなわち「自らの行ないのなかに仏を見いだし、行ないが、即、修行となるように生きなさい」という言葉にあらわせるのではないかと思います。

行住坐臥(歩き、止まり、座り、臥す日常のふるまい)がすべて修行であるとも説かれており、日常生活そのものを修行の場にしていく心構えを、道元禅師は教えてくださっているように感じられるのです。


さて、では私たちが日常生活に仏道修行を見いだしていくにはどうすればいいか。そのヒントを紹介するのが、『道元の習慣術』(植西 聰・著)です。

著者の植西さんは、本書の執筆にあたり次のように述べています。

道元が教えるのは、とにかく「余計なことを考えずに、心を無にして、今目の前にある自分がすべきことだけに集中してみなさい」ということです。
じつは「それが様々な迷いを心から取り払う、もっともいい方法である」と教えるのです。

道元の習慣術』本文より

あれやこれやと「しなければいけないこと」に追われる日々。
新年に立てた目標はすでに記憶の片隅に追いやられ、降りかかってくることに悪戦苦闘する毎日を過ごしている人はきっと私だけではないでしょう。
あるいは、いつまでもやる気が起こらず、今年も1ヶ月が過ぎようとしているなかで、なかなか行動を起こせずに焦りを感じている方もあるでしょうか。

いずれの場合においても、やるべきことはたった一つ。
それは、目の前のことに集中すること、これが修行の第一歩になるのです。

最近つくづく感じることですが、人間そんなに器用ではありません。いくつものことを同時に考えたり、こなしたりできる能力なんて、たいていの人はもっていませんから、じっくり腰を据えて目の前のことに向きあっていけばいい。それが迷いを心から取り払うもっともいい方法であり、心を無にするという、道元禅師が説く「仏道修行」へとつながっていくのです。

 本書では「いま目の前のことに集中する」ための実践のヒントが、100の切り口から語られます。ぜひ、ご自身にあった修行の入り口からお入りください。


図書編集 芙蓉

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『道元の習慣術』植西聰・著
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