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映画「沈没家族」

久しぶりの更新です。映画を見にポレポレ東中野まで。反マジョリティ上等なラインナップが潔い。

自分の生きやすさのために、自分の持ちものや、"義務、責任"と世間から言われるものを手放す。それはどこまで許容できるんだろう。

親としてどこまで手放せるのか。自分にとっての感覚はここなんだ、と改めて自分の感覚を知れた映画。

僕が一番引っかかったのは、子どもが家族と思い、母親とともに子育てを手伝っていた大人たち(映画でいう「沈没家族」)から引き離して、母親が子どもと二人で住処を変えた場面。

他人だからこその距離感

母親にとっては、彼ら沈没家族はは他人でしかなかった。また、沈没家族である大人にとっても、あの親子は家族の距離感にたどり着けない、他人だった。

 漫画「きのう何食べた?」で、近所のおばさんがシロさん(筧史朗)に言った「だって私たち他人でしょ?だから筧さんがゲイだって簡単に受け入れられるけど、娘が彼女連れてきたらやっぱり複雑な気持ちになると思うわよ」という旨の一節があって、他人だからこその距離感に妙に納得したのを思い出した。

だから簡単に、母親は彼らを切ることができたのかもしれない。沈没家族にとっても、あくまで他人の関係であったのなら、移住の決断も「ああそうですか」と受け入れられたのかもしれない(映画では触れられていなかったので真偽は不明)。

   確かに他人との距離感は自分でどうにでもできる。けれど、家族の距離感は他人ほどは自由に変えられないと僕は思う。育てられた子供だけが、他人と割り切れずに「沈没家族は"(逃げられる関係ではない)家族"だ」と思っている。母親がその認識のズレを放置して、子供の意思を聞かずに八丈島に移住したのは僕は納得できなかった。

   母親が旧来の家族観を捨て去って、全ての人付合いを、子どもも含めてすぐに関係を断てる「他人の関係」で生きようとしているなら、なんて芯のある人だと思っただろう。でも、結果的には「実の親子の逃げられない関係」を「他人の関係(しかもそれは子どもは家族だと信じているもの)」より優先させて沈没家族を捨てた。そこに子どもの意思はなかった。それも、「私が暮らしやすい場所を探す」という個人的な動機で。

   親が個人の幸せを追求するのはあってもよいと思う。でも、子ども個人の思いや親との違いを尊重しないで、個人の幸せに子どもを巻き込んでしまっていた。生きづらさを感じるなら、子どもを沈没家族に預けて1人でどこでも行けばいい。でも現実、そういうわけにもいかないのだろう。旧来の家族観に中途半端に縛られているのは、沈没家族を理解できない父親よりむしろ、母親であるように思った。単に、それを批判したいのではない。完全に首尾一貫して生きるのは難しいことをこの映画で思いを新たにした。

他人との距離感と家族との距離感

他人はあくまで本音を控える他人。家族のような掛け替えがなく、本音を言える存在とは違う(主人公の父、山くんに近い) 
いつでも距離を置ける他人だからこそ本音を言える。家族のように逃げられないものとは違う(沈没家族に近い)。

他人の関係とは何か。家族との関係とは何が違うのか。もともと見た人それぞれがもっている感覚によって、この母親や沈没家族の見方がガラッと変わる。見た人といろいろ語り合ってみたい。

この映画、植本一子「かなわない」の読後感と全く同じだった。植本さんの場合は個人的な動機というよりも他人の承認欲求が絡んでくるから、さらに厄介だけど。