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ヨウムのQ太郎のこと。

2021年3月24日、Q太郎が亡くなりました。
22歳4ヵ月でした。

実は1年前あたりから体調不良になっていました。
ここ数ヵ月はいつどうなってもおかしくない状態。
実家の両親もかなり看病を頑張ってくれていたのですが…。
コロナの影響で私もなかなか実家に帰ることができず、もどかしい日々でした、
確定診断を受けてはいませんが、症状を見るにPDD(腺胃拡張症)だった可能性が高いんじゃないかと思っています。

ヨウム本来の寿命まで全うさせてあげられなかったこと、
とても悔やまれます。

本当に、あの子には感謝しかありません。
12年前、実家を出た私のかわりに、高齢の両親の精神的な支えになってくれたのは間違いなくQ太郎でした。Q太郎が両親の介護をしてくれていたようなものです。

◇◆◇

Q太郎が我が家に来たのは1998年10月31日のこと。

この前日に、私がなんとなく入ってみたペットショップで売られていたQ太郎に一目惚れしてしまったのです。
値札を見て驚きました。当時私は20代前半、自分の初任給2ヵ月分の値段。
でも、どうしても、どうしても欲しくなってしまった。
「私、この子欲しいです」
と店長さんに言ったところ
「ヨウムは平均寿命50年、最低でも30年は生きるよ。家に帰って一度よく考えて、それでも欲しかったら明日来て」
と言われ、その日は売ってもらえませんでした。

私は素直に家に帰って考えました。その頃はまだ実家暮らし。
当時、Windows98のお陰で劇的にインターネットが身近になってきた頃。
ネット検索でヨウムの事を調べ続けました。
興奮しすぎて眠れなかった。
そして徹夜でヨウムに関するレポートを書いて両親に提出。
母は最後まで大反対していましたが、父が
「こんなに欲しいんなら仕方ないだろう」
と半ば呆れて許可をくれ、早く行かないと誰かに取られてしまう!と翌日速攻でお迎えに行ったのです。

さあ、ここから楽しいヨウムとの生活が始まる!

…かと思いきや、いきなり壁にぶち当たります。
ほぼ衝動買いでヨウムを飼い始めたので、わからないことだらけなのです。
物心ついたときからずっと鳥と暮らしていたので、扱いには慣れているつもりでした。でも飼っていたのは中型インコまで。大型インコ飼育の難しさをわかっていなかった。


当時、地方のペットショップには思うような用品が無く、関東の田舎から当時東京の池袋にあった鳥専門店に通い、アドバイスをもらって飼育用品を揃えました。
Q太郎はかなり小柄なヨウムで、何を食べさせても太らない…と相談したら、ネクトンをあげるようアドバイスされ、
「鳥用のサプリメントがあるなんて!」
と驚いたり。
止まり木は真っ直ぐなものより自然に近い枝ぶりの物を用意した方が足にいいと聞き、店頭で吟味しまくって天然木の止まり木を1本購入。
時間をかけて選んだその止まり木をケージにセットしたら、Q太郎がそこをお気に入りの場所にしてくれたのが嬉しかった。

そして、ヨウムと言えばおしゃべり能力の高さが有名ですが、Q太郎は我が家で2年過ぎるまで自分の名前しか言えませんでした。
「ヨウムのおしゃべり能力って、言われてるほどたいしたことないんだな。」
とすっかり思いこんでいた私。

しかし、とある夏の猛暑の日に、Q太郎が突然

『クーラーつけるか?』

と流暢な日本語をしゃべった時には、
天地がひっくり返るほと驚いた。

しかしそんなのは序の口だったのです。
それをきっかけにして、Q太郎のおしゃべり能力はどんどん開花していきました。

「行ってきます」と言って出掛けると
『バイバーイ!』
と言って家族を送り出し、「ただいまー」と言って帰ってくると
『おかえりなさい!』
と言って出迎えてくれる。

父が部屋着から庭仕事用のジャージに着替えても無反応なのに、外出用のいい洋服に着替えた時には『バイバイ、行ってくるからね~』と言う。

母がスーパーから帰ってきて、レジ袋に大好物の枝豆が入っているのを見ていたQ太郎。でもその日に出されたおやつがピーナッツだったので
『これ、食べるの?』
と残念そうに母に質問(→あわてて枝豆を茹でる母)。

Q太郎と同時期に飼っていたオカメインコを母がちょっとからかうと
『いけないよ!』
と母に注意する。

きゃたを実家に預けて外出した時、寂しくてビービーと鳴くきゃたに
『こづきちゃん帰ってくるよ』
と話しかけて慰める(が、きゃたは無視して騒いでたそうです…)。

母が作った料理を父に味見させようとすると
『Qちゃんも食べる』
と間に割り込もうとする(人間の食べ物はあげません)。

母が「ああ、さっき買い物行ったのに○○買ってくるの忘れたー!」と騒ぐと
『バカだねぇ』
と突っ込みを入れる。

Q太郎の“あなたもしかして中にヒト入ってるんじゃありませんか”エピソードは際限無くあるのですが、一番思い出深かったのは、私が2ヵ月入院したとき。

私が入院してしばらく経った時、Q太郎が
『こづきちゃんは?こづきちゃんは?帰ってこないねぇ』
と両親に何度も質問しまくるので、両親が仕方なく車にQ太郎を乗せて病院の駐車場まで連れてきた事がありました。母が「こづきちゃんの所に行くよ」と言ったら素直にキャリーケースに入ったそうです。

駐車場に停めた車の中で久しぶりに再開すると、Q太郎は
『どうしたの?』
と心配そうに私に尋ねてきたのでした。

どうしたの、って。
まさかこんなに鳥に心配される日が来ようとは。

相手の気持ちを察知して、空気が読めて、同居していた周りの鳥たちにも気配りができて。上手におしゃべりを披露してみんなを楽しませ、家の中を明るくしてくれた。
Q太郎は本当に賢く、優しい子でした。

◆◇◆

Q太郎の最期の日、両親は看取ることができませんでした。
朝は比較的調子が良い様子だったようです。
母の通院に父が付き添っていき、2人で家に帰ってきたところ、もうケージ内で亡くなっていたそうです。触った体はまだ温かかった、と。

電話口で泣きながら報告する母の話を聞いていて、私は
「ああ、あの子らしいな」
と思っていました。

今まで何度も危篤状態になりました。でも何度も持ち直していた。
その時、何度も母の狼狽ぶりを見ていたのでしょう。
(何度か私のところにも取り乱した様子で電話をかけてきた)
優しいあの子は、これ以上母を心配させたくなかったのかもしれない。

Q太郎なら、きっとそうするな、と。

私はQ太郎の気持ちを代弁するつもりで母に言いました。
「今まで、色々ありがとう。」
母は言いました。
「こちらこそありがとう。長い間、楽しませてもらった。」
あれだけQ太郎を飼うのを大反対していた母が、いつの間にか一番Q太郎を愛でていました。

亡骸のQ太郎はとてもおだやかで綺麗な顔をしていて、最後は苦しまなかったんだな…という事が感じられ、少しホッとしました。

きゃたと同じ霊園で、立ち会い個別火葬をしてもらいました。
クチバシ、頭、背骨は比較的残りましたが、その他の骨はあまり形に残っていおらず。たぶん本人も、相当ギリギリの所まで頑張ってくれたのでしょう。

火葬して遺骨を実家に置いた後、私はQ太郎が気に入っていつも止まっていた天然木の止まり木を、形見がわりに貰って帰ってきました。

脂粉がたっぷりついた止まり木。
さすがにこのままじゃね…と思い、家に帰ってから止まり木を熱湯消毒して、モーリスを吹きかけながらブラシで汚れを落としました。

なんで私はQ太郎の止まり木をここで洗ってるんだろう。
突然そう思い、そしてあらためて噛み締めることになりました。


あの子はもういない。

ボロボロと涙が止まらなくなりました。
亡骸を見ても火葬する時もあまり泣けなかったのは、現実感が無かったから。

Q太郎のために選んだ止まり木が22年ぶりに私の手元に返ってきて、
私はただただ泣きながら、ブラシで掃除をしていました。



もうどこにでも行ける体になったのだから、
たまには実家だけじゃなく私の家にも遊びに来て。
お気に入りの止まり木に止まってくつろいでください。

ありがとう。
大好きだよ、Q太郎。