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貧困の正体

 日本には、いわゆる世界基準でいうところの「絶対的貧困」というものは存在しない、と言われています。


 絶対的貧困は、住む場所や食べ物がなく、人が生存してゆく最低限が入手できない状態を指し、国際的には約2ドル/日以下で生活している人たちを意味します。

 それに対して日本における文脈での貧困は「相対的貧困」で、等価可処分所得の中央値の半分をラインとしており、ざっくり言えば年間所得が120万円程度の人たちを意味しています。

 もちろん、日本においては「貧困」で生活が成り立たない場合は「生活保護」という制度がありますから、それを利用する限り「絶対的貧困」に陥ることはありません。

 その意味では私たちは「相対的貧困」の意味でしか、それを使っていないのですが、それでも「貧困」という言葉は毎日のようにニュースに溢れています。


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 貧困は、私たちにいろいろな複雑な感情をもたらす現象です。たとえば、ニュースを見るだけでも、生活記事ビジネス記事では「老後貧困」に陥らないようにさんざん発破をかけられますし、あるいは事件が起きれば「貧困ゆえの虐待」や「貧困からの犯罪」を目にします。


 一方で「貧困で生活保護を受けているのにパチンコ」をしているとして、もやもやした感情を抱いたり、安定した生活から一転、「リストラで貧困」に陥る人の話を聞きます。

 「貧困はかわいそう」「貧困は自業自得」「貧困は自己責任」「貧困は悲しい・嫌だ」・・・

  数え上げればきりがないくらい、私たちは本能的にこの言葉を忌避し、また吸い寄せられるように関心を持ちます。


 そこで、この記事では、「どんな人でも、誰もがすっきりと納得できるような、貧困についての解説」を行おうと思っています。つまり、貧困の正体を見定めることで、私たちが貧困とどのようにつきあえばいいのかを、この際はっきりさせたいと思うのです。


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A < 貧困になるのは自己責任か、あるいは何かに対しての罰か >

 私たちは貧困を恐れ、怖がり、そしてなるべくなら避けたいがために、貧困に対してつい理由を求めてしまいがちです。ですからつい、「貧困になったのは理由があって、それはその人が悪い」と因果関係を設定してしまうことがあります。
 結論から言えば、これは、ある面では当たりで、べつの面ではハズレです。


B < 貧困は誰にでもなる可能性があるのだから、誰の責任でもないのか>


 逆に、誰もが突然病気になったりして、仕事を続けられなくなり貧困に陥るようなことも想定されます。だとすれば、貧困は自分の責任とはまったく異なり、貧困者はかならず救われるべきだと考えることもできます。

 しかし、それでも私たちは生活保護を受けている人たちがパチンコに行くともやもやした気持ちになったりもします。貧困はその人の責任ではないかもしれないのに、です。

 結論から言えば、これは、ある面ではその人の責任ではなく、別の面では貧困に本人の責任も関係してくるといえるでしょう。


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 ここまで読んでくると、いっそうわけがわからなくなることでしょう。貧困は個人の責任でもあり、責任でもない。貧困には個人に原因があり、あるいはない。言っていることが矛盾しまくりです。


 それでは、それらのもやもや、ハテナを一気に解決する答えに入りたいと思います。


「貧困とは、災害である」


それが答えです。

「貧困は、地震や台風、竜巻や火事といった『災害』の一種である」
という答えを知れば、まったく恐れるものではありません。

 ある日ある朝突然に、裏山が崩れて土砂が押し寄せ、家がつぶれてしまった。そういう災害です。


 ある日、ある夜、台風によって川が決壊し、家が流されてしまった。そういう災害です。


 ある日、ある時間に、大震災によって地域一帯が火の海になってしまった。そういう災害と、貧困は、ほぼ同じなのです。


 災害と貧困が同じ、というと「じゃあ、それは運や偶然ということか?」と思う人もいるかもしれません。たしかに、運や偶然もあるでしょう。


 しかし、山崩れであれば、「山崩れの可能性がある土地」というものはたしかに存在します。その地点においては「山崩れの確率は高い」と言えます。


 同様に、貧困であっても「すべてが偶然ではなく、貧困になる可能性が高いポジションや、場所、環境、行動パターン」というものはちゃんと存在します。ギャンブルが好きとか、不摂生であるとか。


 それでも、その災害=貧困に襲われるかどうかは、その瞬間が来るまで意外とわからないものです。

 逆に、「貧困になりそうだから、そうならないように予防しよう」ということも可能です。川のそばに土地を買わないこととか、マンションの高層階も低層階も避けるとか、ハザードマップを検証するとか、持ち出し袋を用意するとか。


 同じように、副業を持つとか、奥さんも働くとか、資格を取るとか、いろんなテクニックで、災害を減らす工夫も可能なのです。

 残念なことに貧困になってしまったら、避難所生活や仮設住宅に入るなどの行政の支援もあります。それはまるで生活保護の制度があるように。

 親が貧困だと、子供にも貧困が伝播します。親が仮設住宅暮らしであれば、そこから脱出するのに子供たちも苦楽をともにしなくてはなりません。

 もし、あの時起業して仕事をやめたりしなかったら!という後悔と


 もし、あの時、あそこに家を買わなかったら!という後悔は似ています。

 災害が起きてもなんとかなるように万全の準備をしていても、東南海地震はきっとやってくるでしょう。


 貧困にならないように頑張っていても、なるときにはそれはやってきます。

 まさに、貧困は災害とよく似ているのです。

 ですから、災害に遭遇するのに、その人の責任がゼロでない場合があるように、貧困に遭遇するのに、その人に責任がある場合もあります。

 災害がまったく予測し得ないように、その人の責任においてはまったく予測し得ない場合もあります。


 私たちは災害列島に住んでいますから、完全に、パーフェクトに逃れることはできないかもしれません。


 しかし、個人個人、最大限予防策を講じることはできます。


 それも貧困に対する備えと似ています。

 ですから、ただやみくもに
「貧困は自己責任」
と言うこともできません。逆に、備えをしていなければ

「貧困になっても仕方ないよね」


ということも言ってよいのです。

 繰り返しますが、私たちは災害列島に住んでいますから、どうしたらいいのか、どう生きてゆけばいいのかは、かなり多くの人たちが既に知っているし、備えが不足していた人たちがどうなってきたかもよく知っています。

 だから必要以上に貧困を忌避する必要もないし、見ないふりをすることもありません。ただ、危うきには近寄らず、そして、それでも貧困がやってくることを予想して、避難経路を確認しておく必要はあるでしょう。

 これが、貧困への最適な答えです。

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