カリフィアと「ダースベイダーになりたい願い」

trans という接頭辞と同様な意味合いを持つ英語に、cross があるのですが、ラテン語由来の trans に対して cross には「十字架」と「裏切り」という別個の意味を包含しています。「セックス・チャンジズ」は trans の物語であるのと同時に、カリフィア自身の「裏切り」とその心の痛みをあらわした作品...というようにも、読みたいと思うのです。

「裏切り」というのはもちろん、一番感動的な第6章のTSパートナーを扱った件ですが、「ブッチ・レズビアン」から「トランス男性」へと trans したカリフィアは、「女性の価値を至上」とする「トランスセクシュアル帝国」主義からの cross でもあり、おそらくは trans したカリフィアへの愛を冷ました恋人への「ブッチ・ブルース」な cross でもあったことでしょう。この痛みがあるゆえに、この作品は感動的だ、といっていけないでしょうか....

いやね、トランスであることは、なにがしか「裏切って」いることでもあるのかもしれません。「男」のふりを自分はしているだけで、「男」の中に紛れ込んだスパイのように自己疎外して捉える...とか、家族を維持するためにトランスを断念するなど、なにがしかの「断念」やら「裏切り」やら、そういう「傷」の問題が、この作品の底流に流れているように捉えるのは、なにがしかロマンティックな読みのように思われるかもしれません。

この思いを強化するのは、さらに「帝国の逆襲」でもあります。このストーンの小論は必ずしもカリフィアの大著と直接に関わるわけでもありませんが、実はこの「裏切り」が主題化しています。

パスしているトランスセクシュアルは、総体化された一元的なアイデンティティを作り上げ、身体と主体が交錯する相互テキスト性を捨て去ることによって、あるがままの人間関係を築き上げる道を閉ざしてきたという事実に、フタをしたままでいられるらしい。パス至上主義に従い、「読まれる」ことのもつ不安定化の力を否定すれば、人との関係は偽りから始まることになる。

ですから、trans の裏切りは、実のところ trans 自体にも及びます。trans をさらにtransすること、パスしつつ、パスを否定する禅問答のような「パス」の在り方....観念的ではありますが、この「裏切り」の主題を徹底するならば、そういう結論になるのも自然、というものです。

実際、カリフィアが示したのは、「アイデンティティ」とは、「文化」だ、ということでもあります。自らがアイデンティファイする文化に対して、その全一性を受け入れるのか、それともなにがしかの留保を行うのか....その留保の中に「裏切り」は常に潜むわけで、これは人間の事実としか言いようのない宿命でしょう。逆に言えば、「アイデンティティ」は本書では単に「ジェンダー」関連のものだけしか扱わないわけですが、「人はジェンダーのみに生きるにあらず」なわけで、ジェンダー以外の「アイデンティティ」をいろいろ持ち、それらの間を「トランス」しつつ、誰もが生きているわけです。

たとえば私の場合なら、「アーチスト」なアイデンティティは、事実上「トランス」に優先していることが多いです。トランスネタをすることもありますが、多くはなくて、それ以外のネタでの表現が主ですしね。実際、トランスジェンダーのアーチストは、埋没していなくても「表現に関して、トランスジェンダーの表現だとは、思われたくない」と思っている人がほとんどです。ジェンダーを巡る色眼鏡では、絶対に見られたくはありませんよ。

また私の場合「活動家(アクティヴィスト)」になろうと思う気持ちはまったくありません....はっきり言って、「活動家体質」は大嫌いですし、自分はまったく向いていない、と思ってます。いやでもね「活動家」にアイデンティファイされる方、というのもお見掛けするわけです......苦手、です。しかし、考えてみると、「活動家」というのもまさに trans 真っ最中だと思うのもいいでしょう。つまり、「活動家は、その活動を通じて問題を解決し、活動自体が不要になることを目的として、活動する」方々のわけです。「活動して、目的に達して、無用の長物と化すこと」が終点になるわけで、そうしてみると「活動家とは無用の長物に向けて trans しつつある方々」とも解釈できるのでしょう(苦笑)。いや私は「活動家」にアイデンティファイしたい方々のお気持ちは、まったくわからないです....

でもね、考えてみると私の立場、というはなかなか特殊のようにも感じるんです。

  • 完パスのMtF TS

  • アーチスト活動優先のために、非埋没(トランスを秘密にしていない...)

  • でも、活動家ではなくて、活動自体は大嫌い

埋没すればもちろん活動家ではありえませんが、活動家でもないのに完パス非埋没を選択するのは、特殊事情というものです。もちろん、埋没系MtF TS でブログを書く方も多数いらっしゃるわけですが、やはり、トランスの経緯などを書いたらネタがなくなるので、埋没目的の方はやはりブログが続かないのが普通です。そうしてみると、ストーンの「パスできてもパスしない」の趣旨に、意外に私って合致しているのかな....なんても感じる部分があるのですよ。

トランスしても、完パスでも埋没せずに、しかもトランスを売り物にしない

というのが、実のところストーンの趣旨に一番合致しているのでは、なんて思うのです。「トランスを売り物にする」のはやはり活動家の皆さんの方ではないのでしょうか??「トランス」は悪い意味でのスティグマ(烙印)でもないし、十字架のイエスを模倣して信仰を証しする「聖痕」でもありません。単にトランスとしての「日常」を生き延びることが、最大の奇蹟(クィア)な行為なのでしょう。

まあ、戯言です。「裏切られた!」とお気になさらないように。

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