マスクの下(6)
散歩がk吾たちの新たな日課となった。
コロナ騒ぎで家に閉じ籠り、家族と顔を突き合わせる時間は格段と長くなった。変わり映えしない面子で顔を突き合わせているだけじゃ、ろくなことは無い。
ウィルスのように目に見えない微細なものなど誰にも正確にイメージできないのだし、何も分からない中で世間の視線は不安と猜疑でいっぱいになっていたから、子供が1人で外をうろうろするのはリスクが高かった(みんな、気が立っているのだ)。だから、できるだけペアで行動するようにした。k吾とJの兄妹で出たり、Jがn子を誘い出したり、いろんなオーダーを組んでコンビニや公園を巡った。在宅勤務の父を借り出すこともあった。あとは家に帰ったら手を洗う。それくらいしか出来ることは無かった。
k吾がn子を散歩に誘ったのは3月16日のことだった。2月にコンビニで会った時に「受験が終わったら話そう」と言っていたのを思い出して、それなりに勇気を出してk吾から声を掛けた。妹経由でn子の身の上話は耳に入ってくるのだが、直接話を聞かないと要領を得ないところもあった。
団地の外階段を2upして、n 子の家の呼び鈴を押す。グレーのパーカーを羽織って母お手製のうぐいす色のマスクを着けたn子が出てきた。
「久しぶり」
「いつも妹がお世話になっています」
「うん、お世話してる」
とn子は笑った。
とくに行くあても無く、第1団地から第3団地に向かって続くけやき並木を抜けて、小手指のほうへ歩いた。
年賀状だけの遣り取りをしていた相手と4年ぶりに会って話すのだから積もる話はあるのだが、言いたいことはマスクの中に籠もった湿気のように形を持たせることができないまま、「4月から学校無さそうだけど、在宅学習どうする?」という実用的な話をした。
2人とも卒業式や入学式が無いことに感傷を抱くタイプではなかったし、n子のほうはそもそも日本の中学校の経験が無い。
「僕は2学期から半分不登校だったから、学校のことを訊かれてもよく分からんよ。」
「うん。だから、自分で勉強してたんでしょ?」
「まあね。高校受験は塾と自習で済ませた。」
「うちの高校、課題ドッサリ系みたいなんで、律儀に全部やって潰れるわけにもいかないんだよね。」
「ああ、Jも同じこと言ってた。」
2人とも勉強亡者ではないので、とりあえず教科書の内容理解かなあという凡庸な学習プランに落ち着き、基本的な参考書と問題集を選ぼうとなった。私立高だと学校指定の教材で済むかもしれないし、ふつうの公立高のk吾はオンライン授業のある塾・予備校を物色中だった。
「よく調べてるね。」
「自分で調べてやらんと何も進まんからね。他人から言われてやるの、苦手だし。うちの父も母もそういう人だから、基本、泳がせてもらってる。」
「だとすると、Jちゃんはたいへんだねえ。うちの中高、けっこうな詰め込み主義らしいし。」
「Jは学校でうまくやるタイプだから大丈夫でしょう。保育園の頃からずっとそうだもん。」
そこからしばらく、k吾の妹のJの話になった。かわいいよね。根っからガーリーなんだよ。社交おばけ。思春期だし、兄としては黙って見ているしかない。友達からもてるだろうね。社交性にパラメーターを振り切った感じだもんな。引き籠り家族の中で唯一、末っ子だけがああなったのは不思議。
そこに白いパーカーを着て手を繋いだカップルが通り掛かった。大学生ぐらいだろうか。
デートの途中に美男美女カップルに出くわすというのはたいへんな迷惑である。こちらはとくに何がどうにかなっているわけでもないのに出来上がっているものを見せつけられるのも業腹だ。n子もk吾も息を潜めてカップルを遣り過ごして、視界から遠ざかったところで大きく息を吐いた。
「なんか、すごかったね。」
「うん。出来上がってる、って感じ。」
冴えない連中のひそひそ話である。
行政道路を越えたところにあるローソンに寄って、k吾はホットコーヒーを買った。n子は喉が渇いていないから買わない、とのこと。店の外で雑誌コーナーの背表紙を眺めながら2人は立ち話を続けた。
「入学式、無くなるかもねー。」
「卒業式も無しだもんなー。」
「私のほうは帰国でうやむやだから、もともと卒業式はなかったんだけど。」
「そっか。」
そこに何故か先ほどの白パーカーカップルが戻ってきて、ローソンに入って行った。2人に緊張が走り、少し黙った。k吾はぼんやり人参畑を眺めながらコーヒーを飲んだ。n子は車止めの上に立って、バランスを取りながらガラスの向こうの雑誌コーナーの背表紙に目を遣った。広告に「もの凄いフェロモンで女性を惹きつける!」との文案。なんだこりゃ。
n子が視線を上げると、トイレ前の洗面所に先程のカップルがいた。男の方は鏡を覗き込んで髪型を直していた。女はそれに寄り添うように立っていたが、不意にマスクをずらして彼の頬に軽くキスをした。
驚いたn子はよろけて車止めから落ち、転びかけたが、k吾が咄嗟に空いてる右腕でn子の腰を抱えて受け留めた。尻餅をつく寸前だったが、助かった。ロマンチックな恋人たちの抱擁シーンのような光景に、白パーカー女は笑みを浮かべたように見えた。
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