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読書ノート645「いねむり先生」を読んだ

伊集院静の追悼読書シリーズで「いねむり先生」を読んだ。
いねむり先生というのは、最近ではあまり知る人もいないかもしれないが、作家、色川武大(いろかわたけひろ)のことで、彼との交流、交遊録である。
色川は阿佐田哲也の名前でも知られていて、こちらは麻雀の雀士としての名前である。
かつてはテレビでもよくあった麻雀番組にも頻繁に出演していたし、この名前による麻雀小説もいくつもあり、かつてその作品は何冊か読んだものだった。
また、彼はナルコレプシーという、突然居眠りに陥る病気も持っていて、本書のタイトルもそこからきている。
著者が妻の夏目雅子を病気で失い、失意の中、アルコールや博奕にひたりきっていた時に色川と出会い、彼との交流の中で少しずつ自身(自信)を回復させていたくという、おそらくは実際の話が延々と綴られているのが本書である。
著者はある人物を介して色川を知るのであるが、なぜか色川はその時点で著者を知っていて、まだあまり本格的には書き始めていなかった作品に注目しているのだが、そこのところがよくわからないままで、不満が残る作品になっている。
色川と付き合い始めて著者もまた色川に惚れ込むのであるが、どこにどう惚れ込んだのかがよくわからないという、そこにもまた、なんとなく不満が残る作品になってしまっている。
まあ、失意の中かからの回復というか恢復というか、言葉の本当の意味でのリハビリテーション物語といったところなのだが、伊集院静というひとりの作家の生き様の過程の一時期をあわわした作品としては意味があるのかもしれないが、独立した作品そのものとしての意義や価値はあまりないようにも思えて残念だった。
ところで、伊集院の作品に共通しているのだが個人の名前や住所などが、しばしば×××という表記にされているのだが、あれはなんとかならないものか。
本書などでも、それが続いて登場する部分があり、編集者が放置していたのに首を傾けざるを得ない。
彼の作品のタイトルには「先生」とつくものが3つもあるのが面白い。

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