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望楼について考える

旧西原邸には、かつて望楼と呼ばれる高い建物が建っていたそうである。望楼とは、「遠くを見るための高い構築物。物見やぐら」という意味で、平屋がほとんどのこの時代、目立つ建物であったことが想像できる。

望楼が、西原邸の南側に建っていたことは、古写真や言い伝えによってわかってはいたが、正確な位置までは不明であった。しかし、『数寄町家』という本を何気なく眺めていると、通称「三階」と呼ばれる望楼について書いてあり、西原邸だけにあった建造物ではなかったという事が分かってきた。

町家の望楼は、二階の屋根の上に、四畳半から六畳ぐらいの小部屋が乗っている。こられが建てられたのは明治から大正にかけてであるという。

望楼の建つ場所は、通りから見えることはなく、町の景観を乱すこともない。また歩行者を圧迫するものでもない。通りから直接見える事は、存在を主張したり、他を威圧する事に通じる。天守閣しかり塔しかりである。

町家の奥にひっそりと息づき、自らの楽しみのための小さな小部屋。今はもう、建築当時をしのぶことはできないけれども、その姿は、私たちに数寄とは何かを語りかけているようである。

28.綿屋出店の三階茶室

右端に見えるのは座敷の軒である。よって、望楼が座敷からおおよそこのように見えていたことが分かる。

明治32年三階より糸島公会堂を望む

望楼から望んだ街並み。

雪の日の綿屋出店三階茶室

裏門から見た望楼。右側の蔵が三階から見た写真に写っている事から、この写真は南側の裏門から撮影されたことが分かる。建物1階は、真ん中が貫通しており、糸島地方で良く見られる門倉の構造であった事が伺える。

綿屋出店の普請瓦葺き

明治34年(1901)西原邸の新築風景。明治33年にこの写真が撮影できているという事は、望楼はそれ以前から存在した。

庭園から三階茶室を望む

座敷から望んだ望楼。庭園の南側には望楼が建ち、庭を囲んでいたことが分かる。

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旧前原学校から見た(北側)前原の街並み。大きな屋根の商家が立ち並んでいることが分かる。大きな屋根は西原家や徳丸家など蒼々たる前原の商家。


Scan10013 - コピー

その中で、大屋根の奥に望楼の三階部分が見える。通りからは見えないが、遠くから離れてみるとその存在が分かるような建物であった。

この望楼について、平成19年10月30日に、私が溝部さんというおばあさんに聞き取りした記録が残っている。それによると、三階にはステンドグラスが使ってあった事、三階ではお茶の稽古などをしていた事、二階は階段を中央にして六畳くらいの畳敷きが二部屋あった事、望楼から母屋の茶室へは、渡り廊下でつながっていた事。望楼へは主に裏門から出入りしていた事、そして、裏庭には卓球台があった事。今となっては、内部を知る貴重な聞き取りであった。




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