寺子屋

 赤点をとった。補講をうけなければならない。
 学校というシステムに所属している以上、自分はそのシステムに従わなければならない。
「お前は、とりあえず補講を受ければいいと思っているだろう」
 教師が、何か言っている。
「標準の点に達することができなければ、単位を取ることはできない。それを赤点という。赤点をとった場合は、補講を受けることで、その代わりとする。赤点をとっても補講を受ければ、必ず単位は付与される。そして、教師は補講を行い、生徒に受講させなければならない」
 自分は、自分の権利と教師の義務を申し立てる。
「普通は、赤点をとったら、次は頑張ろうって思うものなんだよ。だが、お前は確信犯だろう」
「うん」
「胸をはるな」
 自分はよくわからない。なにが勉学なのかわからない。どうやら、頭の中に学習する内容をコピーするだけが勉学ではないらしい。コピーした内容をまとめ、自分で考えて、レポートを提出したり、クラスメートとディベートしたり、課題を制作しなければならないらしい。
 とにかく学校は、面倒だ。知識など、覚えればそれで良い。自分で考えて、まとめるなど、ダルくて、キツくて、ありえない。
 ディベートは口を開くのが億劫で、黙っていたら、赤点となった。レポートと制作課題は、面倒くさくて、ウダウダしていたら、提出期限がすぎていた。
 脳への知識コピーはサボっていない。知識の確認テストは、ほぼ満点をとっている。
 単に自分で考えるのが面倒くさいだけだ。
「お前、問題になっているぞ。ここまで、赤点が続くと、徹底的な措置がとられる可能性がある」
 脅かされた。慣れている。自分はこうして、十五年生きてきたのだ。何しろ歩くことさえ拒否して、抱っこを所望し、二才なってあきらめてすたすた歩いたという性格だ。面倒くさいをすべてに優先して生きてきた。
 会話は先に進めるに限る。
「補講のスケジュールを教えてください。できれば、内容も」
「まだ決まっていない。後で連絡する」
 教師が、ここで会話を切った。少し考えている。長めの髪を後ろに流し、目は3ミリくらいしか、開いていないが、この目が怖い。ぎろりと自分をにらんだ。
「俺は気が進まねえが、上が限界だ」 
 そう言って、教師は人差し指で上を指し示した。その指が指し示す先を、目で追ったが、何もない。何を言いたいのかよくわからない。教師はそんな自分の様子を二十秒ほど眺めて、それから口を開いた。
「『寺子屋』に行ってもらう」
「は?」
 自分は、その疑問符で教師に疑問を呈し、さらなる説明を求めたつもりだったが、無視された。
 彼は去り、会話は終了した。

「寺子屋」と教師は言った。自分は疑問に思う。言葉の意味がわからないのではない。意味は知っている。江戸時代の私的な初等教育機関だ。読み書きを主に教えたと言われる。
 馬鹿にされているのだろうか。高等教育とまでいかなくても、少なくとも中等教育くらいには、してほしかった。
 そして、その「寺子屋」が補講とどう関わるのかが、よくわからない。おそらく「寺子屋」という名前のEラーニングシステムか、補習カリキュラムだろう。自分は、そう結論付けた。教師が「問題になっている」とか「徹底的な措置がとられる」とか「気がすすまない」とか妙なことを言っていたのが気になるが、脅かしたのだろう。たかだか公立学校の教師を怖がる必要もない。
 心配することもない。補習カリキュラムをたんたんと処理すればいい。時間を対価にすればいいだけのことだ。

「親御さんの承諾書は、受け取っているし、この補講を受けるための記憶も定着済み。OKだ」
 教師は手元のタブレットをチェックしながら言った。親の承諾なんて、基本的な承諾項目は、入学時にサイン済のはずだ。わざわざ追加するなんて、どういうことなんだ。意味がわからない。説明では、三半規管をおかしくする人がまれにいるらしいとのことだった。やけど、胃腸炎、肺炎、頭痛もまれに起こるらしい。
 場所の指定は視聴覚室。バーチャルリアリティーを駆使した体験型補講らしい。真に迫りすぎていて、気の弱いやつは、現実との境目がわからなくなる。バーチャルリアリティーで火を押し付けられると、実際にやけどをおってしまうというやつだ。
 そんなのは、気が弱いせいだ。
 自分の性格を考えるに、気弱か図太いか、どっちと言われれば、図太いに軍配があがる。正確には、図太いというよりは、無感覚、無神経、何も考えていないというのが正しい。
 となれば、自分は平気だと考える。

 立ったまま、ゴーグルをつける。
 風景が変わった。
 机が並んでいる。子供が五人座っている。一段高いその席に、そこにあるは、高貴の生まれか。日にやけたこともないであろう白い顔に、筆を持つその背は伸び、他の子とは違う良い着物を着ている。
 歴史の体験授業だろうか。そういえば、これは何の科目の補講だろうか。覚えていない。細かい説明がなかったように思う。歴史の科目は、赤点科目だったろうか、それもよく覚えていない。
「時は、平安時代~」
 頭の中に、ナレーションが流れる。
 あれ? 平安時代に寺子屋はあっただろうか。
 子供たちは、一人の高貴の生まれのものをのぞけば、真っ黒に日焼けしている。庶民らしい。小さな机の上で、一心不乱に、手を動かしている。背筋を伸ばし、筆を持ち、手習いをしている。へのへのもへじを描いている子供が、周囲に見せびらかしている。いつの世も怠け者はいるいうことだ。
 自分は、一人でその寺子屋にやって来る子供らしい。転校生というところか。わりと良い着物を着て、品よい感じである。へのへのもへじを書いている子供たちは、くすんだ色の絣の着物を着ているのに、絹の着物を着て袴もつけている。
 なに、実世界でもそこそこ品はいいからな。
 目線が低い。
 江戸時代の体験授業だと、自分は結論付けた。
「はて、菅秀才さまの首を持っていかねばならぬ。詮議がはいるのは必定。いかにせん」
 これは寺子屋の主、武部源蔵の心の声らしい。ダダモレだな。
 そして、その武部源蔵が、自分の顔をのぞきこむ。
「やや、これはなんともまれな品のよさよ」
 本当に、ダダモレだな。そして、彼は目に見えて、ほっとした顔になる。なんだ。これは。
 彼は、自分を奥に招いた。
 そこは、畳が几帳面に敷かれた空間であった。座敷と解釈する。そして、寺子屋の主は、自分の手を引いて、座敷の中央に座らせた。嫌な予感がする。
 嫌な予感しかしない。
 でも、自分の膝はぴくりとも動かない。
「堪忍してくれ。菅秀才様の身代わりに、お前の首を斬らなければならぬ」
 そう言いながら、刀を取り出して、まっすぐに構え、自分に斬りかかる。
 待て。ただの寺子屋の主が、なぜ子供の首を斬ろうとしているのだ。しかも人を殺めようとしているのに、構えに迷いがない。
 そして、自分つまり斬られようとしている子供は、動こうとしないのだ。逃げようとしないのだ。それどころか、斬りやすいように、首を差し出している。
 迫り来る刃を感じながら、自分は絶叫しようとした。
 しかし、声がでない。声がでないのだ。
 さらに、あり得ないことに、口角が上がり、頬が緩んでいるのを感じる。信じられない。笑っている。笑っているのか!
 なんで! どうして? 意味わかんね。
 このまま、首を斬られたら、自分は死ぬんじゃね? うわああああああああああああああ。
 自分は、心の中で絶叫し続けた。  

 視聴覚室の準備室に、二人の教師がつめていた。「思考実践論」補講中の赤いパネルが点滅している。
「こういう学生が、増えたよな」
「首斬られても、気づかねえやつ、初めてなんじゃねえか」
「『菅原伝授手習鑑』の、記憶は定着しているんだろ」
「ああ、それは確実だ。事前にチェック済みだ。しかも記憶定着試験の成績は、悪くないんだあいつは」
「ここまできて、気づかないのは、どういうわけなんだろうなあ」
「なんでだろうなあ。『菅原伝授手習鑑』について、記憶しているにも関わらず、結びつかないんだ。結びつける気もないんだろう。平安時代に寺子屋と言われた時点で90%の学生は、『芝居だ』と気づくんだが」
「菅原伝授手習鑑」とは、歌舞伎の三大名作の一つ。当初は人形浄瑠璃として、上演され大好評となった。書の三聖とも称された菅原道真と時の権力者藤原時平の対立を背景に、書道の奥義の伝授や、梅王丸・松王丸・桜丸という三つ子の悲劇、夫婦の機微が描かれる。
「『寺子屋』とも、俺は言った。言ったんだ」
「寺子屋」は、「菅原伝授手習鑑」の後半の見せ場だ。ぶっちゃけていうと寺子屋にかくまわれた菅原道真の子供、菅秀才の身代わりに、松王丸が自分の子供を敵方に差し出して、殺させるという話だ。
 教師は、ストーリーのテキストに目を走らせる。

「息子は死に際して、未練がましいことを言いはしなかったか」
「道真公のご子息の身代わりと言い聞かせたところ、潔く首をさしのべてくれました」
「逃げも隠れもしなかったか」
「にっこり笑って」
「ああ、にっこり笑って。そうか、ははははは、でかした、でかした」
 と言いながら、松王丸は男泣きに泣くのだった。

「ありえねぇはなしだな」
「まともじゃねぇ」
「それで、学生の状態はどうだ?」
「確認したくねえ」
「本当に、この補講を受けさせる意味はあるのか?」
「学生の質が落ちているのは事実だし、上からの命令じゃ逆らえねえ」
 教師はため息をついた。そして、首をしならせ、視線をきめて、背を張った。
 声を投げる。
「せまじきものは宮仕えじゃなア」
 
参考文献
「作家と楽しむ古典 好色一代男ほか」島田雅彦ほか著 株式会社河出書房新社
「乙女のための歌舞伎手帖」関亜弓ほか著 株式会社河出書房新社

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