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サンデーサイレンス、数奇な運命を経た馬はいかにして日本に来たか

サンデーサイレンス、今の日本競馬の血統の中で見ないことはない。日本競馬を変えたとされる大種牡馬であろう。サンデーサイレンスはイージーゴアとの熾烈な戦いを繰り広げながら当時まだ競馬途上国の一つであった日本に来たというのは有名な話であるが、一体どうやって来たのだろうか?ということについて解説していきたいと思う。
まずサンデーサイレンスという馬がどのような馬生を辿ったかについて説明していこう。サンデーサイレンスは2歳時に腸の病気で競走馬生命を失いかけ、3歳初めには馬運車のトラックドライバーが心臓発作を起こし車が転倒、奇跡的に骨や筋肉に怪我はなかったが悲劇的なアクシデントに見舞われ、さらには二度出場したセリも売却されずに売主が引き取る主取りという結果になってしまう。しかしそんな周囲の低評価とは裏腹にサンデーサイレンスは躍進を遂げることとなる。サンタアニタダービーで11馬身差をつけてぶっちぎると、続くケンタッキーダービーでイージーゴアやヒューストンといった馬をちぎりケンタッキーダービー馬になる。その後もイージーゴアとの熾烈なレースを繰り広げた。
そしてそんなアメリカ競馬史の歴史に残るような名馬を手に入れようと画策していたのが、社台グループの創始者吉田善哉である。そしてこれはノーザンテーストなど様々な馬を発掘した吉田善哉は、このサンデーサイレンスの購入を人生最後の大仕事だと言い聞かせて、購入へと踏み切ることとなった。サンデーサイレンスをノーザンテーストの肌馬に付けたらどんな子が生まれるのだろうか…。そのようなことを思い浮かべながら吉田善哉は獲得競争に励むこととなった。
まずサンデーサイレンスは1989年の1月に吉田善哉が、3月には吉田照哉がケンタッキーに行って交渉にあたり、サンデーサイレンスの所有権の25%を、250万ドル(約3億7500万円)で買収した。これにより調教師、医師、そしてストーンファームのアーサーハンコック三世、吉田善哉がサンデーサイレンスの共有馬主ということになった。
しかしこれでは、サンデーサイレンスを日本に連れて行くことができない。サンデーサイレンスを連れて行くには米国で有数の競馬一家の出身であるアーサーハンコック三世の意向が鍵となるのであった。
そんなアーサーハンコック三世と社台グループの吉田善哉とは仲が良かったのもサンデーサイレンスが日本に輸入出来た一つの要因だろう。しかし、これだけではアメリカの有数の種牡馬であるサンデーサイレンスを日本には導入できない。
ところが運は吉田善哉を見捨ててはいなかった。湾岸戦争などの中東での事変が起こった結果、アラブのお金持ちがサラブレッドの購入どころではなくなってしまったのだ。
その結果、社台グループでようやく手が届く金額で、サンデーサイレンスを日本に連れてくることが出来るようになったのであった。
よくこれを曲解して、サンデーサイレンスは運良く日本につれて来れたと勘違いする人がいるがそれは明らかな間違いである。1100万ドル(日本円で16億5000万円)、シンジゲート総額25億という値段で取引されており、それは日本のシンジゲート・購買価格ともに史上最高額での取引であることは留意すべきであろう。
あとは吉田善哉とハンコック三世の仲が良く深い信頼関係が築けたことも要因の一つだろう。事実、電話でサンデーサイレンスが日本に来る交渉がまとまったのだから…。
ともかく数奇な運命に導かれるようにして、日本にやってきたサンデーサイレンス。サンデーサイレンスのすごさは並外れた闘争心から来る溢れんばかりの生命力であろう。生まれたときから不運に会い続けても生き続けた生命力は、今の社台王国を作り上げた吉田善哉の並外れた執着心をつなげたのかもしれない。
その闘争心が今の日本競馬を支えていて、海外でも活躍する馬を排出したのだろう。サンデーサイレンスの並外れた闘争心と、社台グループの創始者吉田善哉の執着心が今の日本競馬を支えているのだ…。


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