見出し画像

善光寺の紹介① 基礎知識編

これから数回にわたって(自分の知識整理の意味も込めて)扱うのは長野市が誇る国宝、善光寺です。全国から人が集まる御開帳などで有名かと思っていたんですが、意外と知名度が低かったので普及活動です。歴史→現在の善光寺という感じなので見たい方からor見たい方だけ見てくださいな。

1.大まかな歴史

 善光寺は644年(皇極天皇三年)に勅願により建立されました。「善光寺」という名前の由来は本田(多)善光という人に由来するものです。実は1400年ほどの歴史があるのです。(参考:法隆寺607年、薬師寺680年、東大寺(大仏開眼)752年)

ご本尊は一光三尊阿弥陀如来という仏像で、三国伝来・日本最古の仏像と言われています。飛鳥寺(安居院)の釈迦如来像が日本最古の仏像と一般的には言われていますが、実は(伝承上では)善光寺の御本尊こそが日本最古の仏像なのです!!(唐突な宣伝)

 都(飛鳥)から遠く離れた信濃の地に勅願の寺院が建立されていると聞くと、後世の脚色ではないかと思ってしまいます。しかし、実際に境内から白鳳時代(薬師寺の時代。7世紀後半)の様式を持つ瓦(川原寺式)が発見されていることから実際に7世紀にはかなりの規模の伽藍が営まれていたようです。

 11世紀前半に浄土教が盛んになると、教科書にも出てくるが善光寺でも活躍します。これを善光寺聖といい、ここで善光寺信仰が全国に拡大します。

 鎌倉時代になると、多くの偉人たちが善光寺を訪れます。鎌倉幕府の権力者たちの信仰は厚く、今も境内には源頼朝の馬の蹄の跡が残っているとの伝承がある駒返り橋があります。新宗派の開祖では、法然上人や親鸞上人が逗留した宿坊が未だ残っており、『一遍聖絵』には善光寺の伽藍が描かれています。

 室町時代には門前町として発展をとげた善光寺でしたが(『詳説日本史』では、伊勢神宮の門前町である宇治・山田と並んで扱われています)、戦国時代になるとご本尊は戦国武将により各地に持ち出されます。武田信玄→織田信長→豊臣秀吉の手に渡ったのちに、長野の地に還座されました。豊臣秀吉の手に渡った際には、方広寺(大仏造立計画や鐘銘事件で有名な寺院)の本尊になったりしました。また、一時的に本尊が祀られていた寺院は、「善光寺」の名でいまも続いているものがあります。甲斐善光寺がその一例です。

 江戸時代になると善光寺参詣が盛んになり、全国から参拝者が集まるとともに出開帳仏が江戸の両国回向院に「出張」する出開帳が盛んになります。八幡屋磯五郎が善光寺門前で唐辛子の販売を始めたのもこの頃です。現在の本堂も江戸時代に建てられたものです。

 それまで不定期だった御開帳が「7年に1度」という規則性をもって行われ始めたのは、明治になってからのことでした。境内には「忠霊殿」という戦没者を弔う施設が新しく建設されたほか、大正時代には高村光雲、米原雲海作の金剛力士像が仁王門に祀られました。また、鉄道網が発達すると善光寺を模した長野駅駅舎(先先代のもの。長野新幹線開通に伴い取り壊された。)が建設され、長野オリンピックの開会式では善光寺の鐘が鳴るなど、善光寺は長野を象徴するものとして今も信仰と観光の場になっています。

2.現在の善光寺

 では現在の善光寺はどうなっているのでしょうか。実は善光寺は他の寺院とはかなり違います。まず、善光寺は宗派がありません。ですから、大本願(浄土宗)と大勧進(天台宗)という寺院が共同で管理しています。本堂での法要も、天台宗→浄土宗という具合に二つの宗派がそれぞれ行います。

 大勧進の住職は貫主(かんす)といいます。こういった方々はずっと善光寺にいたわけではなく、延暦寺など天台宗の各寺院で修行を積んだ方が就任します。(言葉遣いが変かもしれませんがご容赦を。)

 大本願の住職は上人(しょうにん)といいます。代々皇室関係の方々(五摂家:一条・二条・九条・近衛・鷹司)が就任されており、就任の時は参内することになっています。かつての「日本三上人」とよばれた尼寺の中で唯一法灯を保っています。浄土宗の八大本山のうちの一つです。

 善光寺の中にある寺院はこれだけではありません。善光寺には宿坊というものがあります。宿坊はそれ自体が一つの寺院で、各宿坊にはご本尊がおり、ご住職がいます。一方で、本堂で行われるお朝事(毎朝の法要)に参加もしています。御開帳で一番有名な中日庭儀大法要に参加している方々も宿坊のご住職です。

 「宿」坊というだけあって参拝者用の宿舎としての役目を果たしており、宿泊者には法要の取り次ぎや境内の案内などを行なっています。昔は特定の地域から来る団体客(講)を受け入れる、といった形でしたが、参拝者の高齢化に伴いそうした伝統も途絶えつつあります。そのため、数珠作り体験や写経体験ができる宿坊や万華鏡ショップを営む宿坊、食事のみの利用も可能な宿坊が登場するなど、宿坊のあり方も多様になっています。参拝の際にはぜひ。https://www.zenkoji.jp/shukubo/

 善光寺の宿坊は全部で39あります。天台宗は「◯◯院」という名前がついており25院、浄土宗は「◯◯坊」という名前がついており14坊あります。このうちの一部は、昔時宗の宿坊だったそうです。また、浄土宗の宿坊のご住職は全員「若麻績」さんであり、本田善光の子孫と言われています。(「本田善光」が誰かわからない人は1.大まかな歴史の最初の方を参照してください。)

 宿坊は昔、多くの寺院や神社にありましたが、一定数以上の宿坊をもつ寺院は高野山金剛峯寺など、今や数えるほどになってしまいました。例えば、長野県諏訪市の諏訪大社上社本宮に隣接する法華寺という寺院(本能寺の変の年、明智光秀が織田信長に辱められ、変の一因となった場所として知られます)は、かつて8つの宿坊を伴う大きい伽藍を形成しましたが、神仏分離令により取り壊されました。身近の寺院にも実は昔宿坊があったかも、いや、それどころか塔を伴う大寺院だったかもしれません。

↓宿坊がある通り(法然通り)

画像1

3.おわりに

 全て読んでくださった方はありがとうございました。脚注が挿入できないので括弧での但し書きが多い読みにくい文章になってしまいましたが、ご容赦ください。需要があろうとなかろうと、次は善光寺縁起とご本尊について書きたいと思います。

参考:信州善光寺HP、大勧進HP、大本願HP、知恩院HP、法隆寺HP、薬師寺HP、東大寺HP、清浄光寺HP、甲斐善光寺HP、八幡屋磯五郎HP

写真提供:善光寺

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?