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結婚の日、駅前でのキスシーン

 駅に続くエスカレーターをのぼりかけ、右隣に彼の気配を失って、後ろを振り向いた。ペデストリアンデッキの突端で、彼は彼女とキスをしていた。一瞬、声を失った。彼女がドレスをまとっていたのが理由の一つ。もう一つは、かなり普通じゃない場面なのに、そのキスシーンが、まるで絵に描いたように美しかったからだ。

 もうだいぶ昔のことだ。その日、大学時代の友人だった彼と私は、結婚式の二次会に招待されていた。都心にある瀟洒(しょうしゃ)なホテル。挙式と披露宴を終えた新郎新婦は、上品な装飾の施されたバンケットルームに、気の置けない仲間たちを招いていた。

 新郎新婦は会社の先輩後輩。新婦と私の友だちは同僚だ。つまり、新郎と友だちは、会社の先輩と後輩という関係になる。

 結婚が決まってほどなく、新婦は友だちと恋に落ちる。彫りが深くてニヒルな彼は、学生時代からよくモテた。それはもう、思わず笑ってしまうぐらいのモテぶりだった。黙っていても、次から次へと女の子たちが寄ってくる。モテることで自己肯定感はさらに高まり、「モテる」の無限連鎖が完成する。彼はある地方都市の出身で、二枚目なのに、どこか木訥(ぼくとつ)とした印象を宿していた。どちらかといえば、話術も達者なほうではない。

 つまり、ちっとも不実な感じがしないのだ。生まれ持ったルックスと、出身地に育まれたキャラクター。ときに彼に失恋した相手の慰め役を請け負った私は、「それだけモテれば、いつも真夏みたいな気分だろうね」と嫌みの一つも言ってみる。「いやあ、夏っていうより、春かなあ」と彼はまるで悪びれない。そういう天然の憎めなさも含めて、あの頃の彼は、しみじみ無敵だったなあ、といまでも思う。

 「会わせたい子がいる」。駅前でのキスシーンのしばらく前、彼はそう言い、彼女を紹介してくれた。その後、なぜか3人で、ご飯を食べたり近場に遊びに行ったりした。初対面で、可愛い子だな、と感じた。背が低く、華奢な体軀に、小さく整った顔がのっている。そのうえ、動作は森の小動物を連想させて、コケティッシュ。こんなふうに生まれつき、振る舞えたら、私もさぞや、人生が楽しかったに違いない。正直、彼とお似合いだと思った。彼女が、誰かのフィアンセだと知るまでは。

 あるとき、「実は……」と彼に打ち明けられ、さすがに絶句した。まだ若かったから、「倫理」を持ち出してたしなめるのはなんだか格好悪い気持ちがして、「あなたはそれで平気なの?」と変化球を投げた。「うん。平気」。輸入タバコをくゆらせながら、憎らしいほど余裕綽々と、彼は言った。「自己肯定感お化け」になっていたあの頃の彼に、直球はもちろん、変化球だって通じるはずがない。「へえ、そうなんだ」。なんとも間抜けな相づちを打ち、私はひとり、ぐるぐる思考を巡らせていた。

 自分の好きな相手が別の誰かと結婚する――。いやいや、私だったら耐えられないぞ。だって、一つ屋根の下で暮らすんだよ? 同じ寝室で眠るだろうし、体を重ねることだってあるはずだ。そういう妄想をするだけで、嫉妬で気が狂いそうになる。

 「結婚よりも離婚のほうが何倍もたいへんだ」という話を人生の先輩たちから聞かされたこともある。婚姻届は「たかが紙切れ」だけど「されど紙切れ」なのだそうだ。きっと、実際、その通りなのだろう。まだ若かった当時の私の知る範囲にだって、もう完全にしくじっているのに、「離婚できない」不幸な大人が何人もいた。結婚はある意味、勢いでも可能だけれど、離婚となると、そう一筋縄ではいかないはずだ。

 そうこうしているうち、彼女と、知らない男の人との連名で、二次会の招待状が届いた。「行くよね?」。彼はさも当たり前のように私に尋ねる。まるで、学生時代に授業を終えて、学食にでも誘うようなノリだ。正直、気が進まなかった。とてつもなくいびつなものを見なければならないような感じがして、なんだか怖じ気付いていた。

 ことここに至り、彼に勝算があるとも思えない。踏ん切りをつけるための「自傷行為」につきあうのか、と悶々としながら彼を見ると、例によって余裕たっぷりだ。すごいな。お化けというより、もはやモンスターだ。頭の中に微塵も「自傷行為」なんて言葉はない。私は観念し、「行くよ」と答えた。

 はじめて目の当たりにした新郎は、ちっとも彼に似ていなかった。3人の勤め先は、インテリが集まることで知られている。社名からイメージされるその企業の社員像を、新郎はそのまま体現しているようだった。線が細く、賢くて、まじめ。たぶん、学生時代に微分積分で躓いたことなど一度もないだろう。まったく勝手な想像だけれども、そんな印象を抱かせるに十分な容貌だった。もちろん、これは揶揄ではなく、そのうえ優しく家族思いであれば、夫としては申し分ないはずだ。

 同時に、婚約まで終えた彼女が、なぜ私の友だちに惹かれたのか、とてもよく理解できた。あらかじめ行き先が知れた普通列車ではなく、まれに運行されるミステリートレインに乗ってみたい。経由地も、終着駅も分からないからこそ、わくわくする――。その誘惑は強烈で、一度買ったチケットを破り捨ててでも、ミステリートレインに乗車したいと思うのだ。

 いまならば、「リスクがあるよ。大丈夫?」という言葉のチョイスもありうるけれど、まだ若かった私の引き出しには、警告文は入っていなかった。それどころか、彼女の気持ちが分かってしまった。頭でこねくり回した「倫理」ごときは歯止めにならない。何より、単なる傍観者が立ち入るべき領域でも、きっと、ない。

 二次会がはねて、招待客をおおむね見送った新郎が、ホテルの客室に着替えに戻った。彼女はそのタイミングで、ペデストリアンデッキでつながった目の前の駅まで、彼と私を見送りにきた。そして、冒頭の場面である。

 声を失った私の体が、エスカレーターで5メートルほど運ばれるぐらいの時間、彼と彼女は唇を重ねていた。そっと触れるようなキス、ではない。「じゃあ、またな」。彼は片手をあげて、悠然と彼女に笑いかける。彼女はうん、と小さく頷いて、にっこり微笑んだ。

 帰り道、彼とどこかで軽く一杯飲んだ記憶があるけど、どこの店かも何を話したのかも、まるで覚えていない。すごいものを見た。まったくの他人事なのに、すっかり事態にやられてしまった私の小さな脳みそは、完全にキャパシティーオーバーに陥り、半分機能を止めていたのだろう。

 3人は同じ会社に勤めている。その後にどんな修羅場があったのか(なかったのか)、私は怖くて訊けなかった。ただ、結果を言えば、この一件は、彼の圧勝に終わった。

 駅前でのエピソードからそう遠くないある日、彼女は入れたばかりの籍を抜いた。当時の再婚禁止期間の半年をやり過ごすと、正式に彼の妻になった。彼は転職することもなく、同じ会社で働き続けた。

 いったいどんな魔法を使えば、こんな「ハッピーエンド」を紡ぐことができるのだろう。もっとも、それは彼と彼女にとっての「ハッピーエンド」に過ぎず、新郎にとっては悪夢のような「バッドエンド」だったに違いない。

 メンタル弱めの私としては、当時、新郎の気持ちを推し量り、自分が「共犯者」であるかのような気にもなって、軽い鬱に陥った。いまならば、こじれて長引き、泥沼の結婚生活を続けるよりも、早じまいを決断した新郎新婦の判断は、むしろたたえるべきだと思えるけれど、あの頃の私は、まだ世間ずれするには、いささか人生経験が足りていなかったのだ。

 彼とはその後、しばらく年賀状のやりとりが続いた。夫婦の写真に、ほどなく、愛くるしい子どもが加わる。夫婦の趣味を楽しむために、彼は都心から少し離れた場所に自宅を構えた。美男美女であることは、年を重ねても変わらないけれど、写真でみる彼は、もはや「お化け」でも「モンスター」でもなく、彼女も小動物から素敵な「お母さん」に変わっていた。幸せそうだった。

 私も同じく、年をとった。この間、普通列車に乗ったと思ったカップルが、まさかの脱線事故に遭遇したり、車両故障で身動き取れなくなったりしてしまったケースを、いくつも見聞きした。配偶者への不平不満をこぼしながら、子どもや世間体を理由に、家の外にこっそり「交際相手」をつくっている事例も、片手に余るほど知っている。その組み合わせの幸せや不幸せって、つくづく、結ばれた時点では分からないものだなあ、と感じる。

 二次会は、その年の、秋が深まったころのことだった。彼と彼女の近況は知らない。あのまじめそうな新郎が、その後に改めて、最良の伴侶と出会い、幸せな人生を歩んでいればいいな、と思っている。

#TenYearsAgo #結婚

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