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雑談と、銭湯と、noteという居場所

 たいしたことをしているわけでもないのに、日々、なんだかせわしなく、noteの更新がおろそかになっている。にもかかわらず、毎日何人かの方がページを訪れ、たまに以前の投稿に「スキ」まで押してくださる。noteは不思議で優しいプラットフォームだなあ、としみじみ思う。瞬発力が重要で、秒単位で膨大なコンテンツが消費され続けるツイッターとは、時間の流れがまるで異なる。誰かに悪口を言われることも、論争になることもない(少なくとも私は一度も経験していない)。なんだか、古くからある喫茶店のようで、ただひたすら居心地がいい。

 気づくともう今年も残り2カ月だ。東京で五輪があるはずだった2020年は、新型コロナですべてが変わった1年だった。大事なものは何なのか、染みこむように理解ができた。

 たあいのないお喋りが、こんなに大切だったとは――。友人がそう話すのを耳にした。ここしばらくは出社の機会も増えたけど、リモートワークが当たり前になった。同僚や上司らと、オフィスでちょっと雑談したり、ランチや飲み屋で談笑したり。そういう場面が格段に減ったという。結果、あうんの呼吸や推し量りの気持ちが微妙に鈍り、コミュニケーションのコストがかさむようになったのだそうだ。

 前にも書いたけど、私はおふろ屋さんが大好きだ。コロナが流行ってからは、施設内の至る所に「会話はお控えください」と紙が貼られるようになった。よく行く銭湯には、ちょっとした休憩スペースがあるのだけれど、ずっと閉鎖が続いている。以前は一風呂浴びたあと、冷たい飲料を片手に、ごろんと寝転び体を冷ました。一風呂浴びて、くつろぎながら誰かととりとめのない話をする。私にとって、それは至福のひとときだった。

 長時間の滞在は感染リスクを高くする。密になるのも避けねばならない。いずれももっともだから、やむを得ないことだけど、これが「普通」になるのだとしたら、残念だなあと感じてしまう。

 オフィスでの雑談も、外食先での談笑も、「生産性」とはほど遠い。でも、そうした「無駄」の集積は、確実に人と人との滑らかな関係性に貢献している。湯上がりにゆるゆるしたあとで、「さて、あしたも頑張るか」という気持ちがわいてくる。ゆとりは必ず、その先の燃料に変換されるのだ。

 決して定量的には測れないけど、それらが減って、ギクシャクが生まれ、モチベーションが低下するのを見聞きすると、ああ、人間って面白いなあ、と改めて思う。無駄を省いて効率化を突き詰めたところで、きっと、長い目で見れば、生産性は劇的にはあがらないのだろう。

 そこそこ長く生きているから、技術やシステムが導入されたことにより、しんどい作業から解放されたという経験はある。工夫や進歩を、私はまったく否定しない。でも、と思う。どんな仕事だって、結局、どこかで人が関わっているのだ。自分や誰かをとりまく状況が、心地いいものであることこそが、サスティナブルに効率性を高めてくれる。それはたぶん、長期的な視点で見れば、生産性にも寄与するに違いない。こういうところを近視眼的に判断しては、駄目なのだろう、と私は感じる。

 ただそこにいるだけで、なんだかホッとする。相手の気持ちがにじむように伝わってくる――。考えてみれば、そんな関係性を紡げた誰かとは、異性だろうと同性だろうと、長続きした。昔ながらの喫茶店や、noteを私が好きなのも、きっと同じ理由なのだ。もちろん、たまにはスタバもツイッターも利用するけど。

 欧州では再びコロナが猛威を振るっている。日本でも新たな感染者がなくならない。罹患した人、医療従事者、関係する公務にあたる人たちは、本当にたいへんだ。せめて今冬、インフルエンザまで流行しないことを祈っている。

#TenYearsAgo #コロナ #銭湯 #note


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