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わすれもの

出発進行
腐った生ぬるい風に
みんなのスカートが揺れる
見えそうで見えない気持ち
赤い勝負の色

目が覚めた。私の頭にうっすらと向こうの方から聞こえて、きた音楽。どこからともなく流れてきたそれはクリープハイプの『わすれもの』だった。

手術前、押しつぶされそうな不安の中で、病室から手術の病棟に運ばれると、覚悟や意識をするまもなく、ベットのまま手術室に入った。すぐに麻酔を嗅いで数秒のうちに意識がなくなっていた。意識が戻り手術室の明るいライトの光がうっすらと目に入りはじめる中、出発進行腐った生ぬるい風にみんなのスカートがゆれる。尾崎さんの声がクリープハイプハイプの音楽がぐるぐると流れ続けた。喜怒哀楽のルーレット。少しずつ意識が戻ってくると、私の肩を叩き麻酔科覚まそうとする看護婦さんの声が聞こえてきた。わすれものってなんだあたっけ。手術終りましたよ。手術は成功ですよ。これから病室に戻りますね。
看護婦さんの声が向こう側にあって、わたしはわすれものに守られて、その歌を知らず知らずのうちにぐるぐる繰り返して、幸せな気分に浸っていた。

前の年の暮れ、私の病気が見つかった。人間ドックで胸にしこりがあると言われて、細胞を取り精密検査をすることになった。検査結果を聞き、なんで私がなんで私が、何度も心の中で繰り返していた。自分の病気を受け入れるまでに、時間がかかった。セカンドオピニオンを考えたり、これからどうなってしまうのだろう。

病名がわかってからの日々は、病名をつけられるまでの日々と全く変わってしまった。そんな中、私の心を支えてくれたのはくれたのは、クリープハイプの曲たちだった。クリープハイプの曲を聴いている時だけは、病気の不安から少し距離を置くことができた。尾崎さんの張り裂けそうな歌声、甘い歌声。尾崎さんの歌声がクリープハイプの曲が私の精神安定剤だった。

その数年前にクリープハイプを知った。Instagramの中に1枚の写真があった。4人のおじいちゃんがジャケットの新曲だ。コメントにはクリープハイプ。この曲がその人にとってどれほど心に響いたかが語られていた。どんな曲をこのおじさんたちは歌っているのだろう。その場でネットから注文した。届いたCDは、クリープハイプの『寝癖』。
私髪が白くなってもいつまでも一緒にいたいよ。そのフレーズを初めて一人で聞いた時に泣いてしまった。私の気持ちだ。お互いに仕事で忙しい毎日。一緒にご飯を食べる時間も、ないこともあった。ひどい時には週末しか一緒の時間が過ごせなかった。
歳をとって白髪になっても一緒にいたい。それがわたしの気持ちだけと思った。自分で言葉にしたことはないけれど、尾崎さんが書く詩の中の言葉は、自分では意識したことも考えたこともなかったけれど、曲を聞いて、その気持ちだと思う。生まれ変わったら何になろうかな。

思ったことを口にして周りの人を傷つけて、素直になれずに頑なになって、自分の嫌なことばかりを考えて、それでもまた傷つけて傷つけられて、ますます職場で一人になっていた。『二十九、三十』は、そんな私が毎日出勤の朝に聞いていた曲だ。一生懸命になればなるほど、考えれば考えるほど、それを口にするとどこかで誰かにぶつかった。嘘をつけば嫌われる、本音を言えば笑われるちょうどいいところは埋まってて。もうあんたでいいから見てて。もしも生まれ変わったら家電にでもなって 空気清浄機とかなら楽してやっていけそうだな、空気を読んだふりをして、遠くから眺めてるだけの俺みたいだし。
俺って尾崎さんが書く歌詞で初めて聞いて、俺は私だった。

仕事のことと彼のことばかり考えて、自分のことを考えられなかった自分にクリープハイプの曲は、自分の奥にある気持ち気づかせてくれた。

『わすれもの』のリズムと曲と歌詞。赤い色がはっきりと私の中に流れた。喜怒哀楽のルーレット。切ないけど優しい曲たち。この曲を劇場で聞きたくて、何度も足を運んだ映画館。その時の浮き立った気持ちを手術室から病室に運ばれながら考えていた。その時の私は手術直後なのに、病気のことは少しも頭の中になく、何度も出発進行腐った生ぬるい風にみんなのスカートが揺れるが流れて、笑顔に揺れるスカートと赤い傘がくるくる動いていた。

術後8年目の検査。検査はやっぱり少し緊張した。
来週結果が出る。検査の日、どこかにわすれた左手の手袋はみつからないまま。


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