自給自足

名古屋で生まれ育った持田さんは東京の一流大学を卒業し一流企業に就職してからも出世競争を勝ち抜き若い課長として未来を嘱望されていた。
そしてそんな頃、彼は突然会社を辞めたという。
全てがどうでもよくなった。
嘘と建前だけに囲まれて生きているうちに自分も同じ事をしている事に気付いてしまった。自分が本当に嫌になった。
綺麗ごとでも格好をつけていた訳でもなく本気で生きる意味を見失った。
一時は自殺すら考えたが自分には自殺する勇気など持ち得ていない事を悟り次に探したのはそれからの生き方だった。
とにかくこれまでの自分と決別し新しい自分に変わらなければ・・・・・・。
そう思った彼はそれまでとは全く違う環境に身を置く事を選んだ。
何でも簡単に手に入る便利すぎる都会での暮らしをあっさりと捨て全てを自給自足で賄う山奥での暮らしに光を見出した。
まだ35歳だった彼はそれまで使い道も無く貯めていた貯金を資金にしてネットで物件を検索した。
その中から5軒ほどの中古物件をピックアップし自らの足で現地に出向き物件を確認した。
そして彼がその中から選んだのは古い平屋の日本家屋だった。
他にはお洒落な別荘やモダンな洋風家屋もあったらしいが環境や整備が整い過ぎていて自給自足には程遠い。
そんな彼の中で決め手になったのは地下水が汲める井戸と自家発電装置の存在だった。
水と火が無ければ生きてはいけないし水と火さえあれば殆どの事は出来てしまう。
それに余暇の時間としてパソコンやスマホでネットだけは使えるようにしていたい。
そう考えたようだ。
そして彼は購入した古い日本家屋をDIYでコツコツとリフォームし始めた。
その家屋があったのは市街地から山道へ入り小さな集落を二つほど通り過ぎ細くガタガタと荒れた道を20分以上進んだ先にある森の中の一軒家。
森の中にポツンと一軒だけが建っているという奇妙な立地。
とりあえず家の傍までは車で行けるがそれでも3分程自分の足で森を登っていかなければいけなかった。
だから彼はリフォームが完成するまでは一番近い市街地に安いアパートを借りて暮らしそこを拠点にして毎日せっせとリフォームに通った。
実際、彼がリフォームを完了しその家に住みだしたのは購入してから1年程を費やした。
家には囲炉裏と薪ストーブ、雨戸付きの縁側、そして五右衛門風呂があったが彼はそれらには手を付けなかった。
古き良き物には手を加えず不便な物だけを自分が使い勝手が良いように改造した。
彼が主に手を加えたのはトイレと寝室。
トイレは汲み取り式だったものを簡易式のバイオトイレに交換し寝室ではベッドを置いてパソコンとネット環境を整えた。
それだけでもそれなりの出費だったらしいがやはり暮らし始めてみると不便を感じる箇所が幾つか出てきてしまいそれらも追加でコツコツと手を加えていった。
そうして快適に暮らせるようになっていったが彼はそもそも何らかの仕事をして生計を立てようとは思ってはいなかった。
家の前には畑がありそこで色んな作物を作りそれを食べて暮らしていく。
本来ならば違法になるのかもしれないが彼は家の近くに幾つか罠を仕掛けその罠にかかった小動物も食べるようになっていく。
自分の手で作った作物と罠にかかった獲物。
それらを美味しくいただくのは本当に幸せな時間だった。
まさに自給自足の生活というわけだ。
彼の悠々自適な生活は1カ月半ほど続いた。
それまでの暮らしが馬鹿らしくなる程に全てが自由で発見に溢れた楽しい時間だった。
しかしある日の夜、それは突然終わりを告げた。
雨が激しく降り続く夜だった。
誰かが雨戸を外から叩いていた。
最初は聞き間違いかと思った。
そもそもその家に誰かが訪ねてくる事など1度も無かったしこんな土砂降りの中をこんな山奥にわざわざやって来るなど常識的には考えられなかった。
最初は風で飛んできた何かが雨戸にぶつかり音を立てているのか、と思った。
しかし耳を澄まして聞いていると確かにゴンゴン・・・ゴンゴン・・・と握りこぶしで雨戸を叩いている様にしか聞こえてこない。
もしかしたら泥棒か不審者かもしれない・・・・・・。
そう考えた彼は雨戸の横に在る浴室のルーバーから外の様子を盗み見た。
そこには女が1人で立っていた。
30代くらいの女はごく普通の洋服を着て身なりもちゃんとしており一見おかしなところは無いように思えた。
しかし彼は気が付いた。
土砂降りの雨の中、傘もささないその女が全く濡れている様子が無かった事に。
なんなんだ、こいつ・・・・・・。
これは人間じゃない・・・・・。
そう思った瞬間、彼は全身に鳥肌が立つのを感じた。
女は人の言葉とは思えない奇妙な声で何かをぶつぶつと唱えていた。
雨戸を開けてはいけない!
これを家の中に入れてはいけない!
彼は必死に恐怖に耐え一睡も出来ないまま朝を迎えた。
朝になると雨戸を叩く音も奇妙な呟き声も聞こえなくなっていた。
昨夜のは一体何だったんだ?
いや、きっと疲れてるんだ。
だからあんな音が聞こえてしまう。
しかし、あれがもし本当だったら?
その時にはすぐに警察に助けを求めればいいじゃないか!
彼は考えれば考える程強くなる恐怖心を自分にそう言い聞かせる事で無理やり抑え込んだ。
その日の夜には雨戸を叩く音は聞こえなかった。
しかしその代わりに家の中からぶつぶつと何かを唱える声が聞こえるようになった。
雨戸は開けなかったのにあの女が家の中に入って来ている・・・・・・。
そう確信した。
その女が現れるのは夜だけ。
昼間には何も感じる事も無かったが夜になれば毎晩のように女の呟く声が聞こえてきた。
きっと起きているから尚更恐怖を感じてしまうんだ。
そう考えた彼は夜になったら早い時刻から床に入り寝入ってしまう事にした。
しかしその女の呟き声は少しずつ家の中を移動し侵食していく。
そうして彼には最後の砦として寝室だけが残った。
どうやら寝室にだけはその女も入っては来られないのが何となく分かった。
夜になると寝室から一歩も出ないという生活が3日ほど続いたある夜。
彼は引き戸の隙間から初めて女の顔を見てしまった。
そしてその翌日、彼はリフォームした家を捨てて実家に戻った。
その女の顔は口元から大きく裂け蛇の様になんでも飲み込めるかのようにしか見えなかったらしく流石にその恐怖には勝てなかったようだ。
その女が幽霊なのか、それとも山に棲む妖怪の類なのかは分からない。
ただその女にとって彼自身も自給自足の餌でしかなかったのかもしれない。
人が住まなくなった土地は数年も経てば人が住める土地ではなくなると聞いた事がある。
だとしたらその土地はもう・・・・・・。
 
 
 
 

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