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妙理

封と開

事物を秘するに最適な方法は、
徒にそれらを隠匿するのではなく、
それに纒わる観念的繋がり自体を隠匿することだ。これをを咒禁と言う。

つまり、或る「眼鏡」を得ない大多数の者にしてみれば、それら一つ一つは、何ら意味もなさない事象の集積に過ぎず、そもそも疑問すら浮かびようのない、当たり前の日常風景なのかもしれない。

偉大な施咒者は、初発の時点で(封)の仕組みを大胆、かつ精緻に構築するため、以後は何世代に渡ろうとも、たとえその本意すら忘れ去られていても、後のものが継続の型を繰り返すことで、その霧雲は継続され、展望をえられることはない。

何ものがおはしますのか知れぬうちに祭り、儀式を繰り返し、まじないを上塗りしていく。我々日本人が得意とするこれら一連の習慣は、その仕組みに力を与え続ける。

これは善悪の問題ではなく、あくまで構造についての解説だから、勘違い無きようお願いします。
後世の安寧を祈り、秘するべきを秘することは、政体としては洋の東西を問わず、必ず施してきたことであり、全てを白日にさらけ出すことが良いと言う風潮こそ、不自然で寒々しいものに私は感じています。

しかし、かような仕組みも、始まりがあれば必ず終わりがある。
少なくとも、事象の森の中、秘匿された小径を覗う「眼鏡」を得るものが現れたときーその咒禁は開封される。

その眼鏡は、天啓か、継承か、はたまた個人の研究や夢想なのかもしれない。
天も地も誰がそれを授けたのかも知らず、誰が受けたのかも知れぬ。
道を見た者は黙し、知らぬ者こそ騒ぎ立てるは世の常か。
しかしながら、事実は粛々と進行し、留まることはない。

こういった一連を「妙理」と言祝いでみたい。

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