見出し画像

里山へ至る道            心を病んで

一番書きたいこと

今から34年前、23歳の夏から秋までの3か月あまりの日々を、私は精神病院の閉鎖病棟の中で過ごした。年齢的には大人になり、人生と呼べるものが始まったときにわが身に降りかかったこの出来事が、その後の私の人生を決定付けたと言えるだろう。
世の中はバブル景気に浮かれていた1988年のことだ。それなのに私は閉鎖病棟の畳の部屋の片隅にボロ雑巾のようにころがっていたのだ。

私の20代、30代は、自分の心の問題との格闘に費やされたと言っても過言ではない。二度と精神病院だけには入りたくない一心で、必死に社会復帰=人並みになることを目指し続けた日々であるとも言えよう。けれども、目指せば目指すほど、違う方向へ行き、最後は里山暮らしへと至った訳だが、そのことも追々書いていきたい。

ところで、身体の病気の話しは、それが過ぎ去った後に本人の口から語られることが多いように思うが、心の病の話しは簡単にはできない。
最近はうつ病の体験を語る本も多く出版され、うつ病についてはハードルが下がっているように思うけれども、精神の病を忌み嫌う社会の風潮は変わらないのではないかと思う。
私もまだ退院して間もないころ、ある仲間の集まりで精神病院へ入院していた体験を話したところ、場が凍りついたようになった体験があり、不用意には話さないようにしてきた。あまりに唐突にとんでもない体験が語られたから、みんな反応の仕様がなかったのだとは思うが。

だからあの体験は、34年間ずっと心の奥底に澱のように溜まり続け、折に触れて思い出し、自分の中で反芻してきたのだけれども、一度きちんと書いておきたいという思いを持ち続けてきた。
今回、30年以上が過ぎてようやく書くことができる時が訪れたのだと思う。

戦中戦後を生きてきた世代などからすれば、食うに困る状態だったら悩んでいる暇などない。親のすね齧って大学まで行かせてもらって、何を悩むことがあるのだ。そんなのはただの贅沢病だなどと思われてしまうように思う。実際、そのように言っているのを聞いたことがある。
それはその通りだと私も思う。確かに戦中戦後の飢えの苦しみ、命の危険に晒される恐怖、大切な人を戦争で喪う悲しみなどに比べたら、たいしたことはないと思われるのは当然のことなのだ。

けれども、私たちも自ら選んで心を病んだわけではない。豊かで恵まれた時代に生まれ育っているにも関わらず心を病んでしまうのだ。心を病んで社会生活ができなくなった若者のほとんどが、自分を不甲斐ないダメな人間だと感じて、自分で自分を責めている。
自分以外の多くの人は社会に適応して、豊かで充実した人生を生きているのに、どうして自分だけがこんなふうなのかと思えばこそ、余計に辛いのだ。私もそうだった。

この豊かな時代になぜ心を病むのか?その人の性質や家庭環境などの個人的な原因以上に、この社会のあり方が大きく影響しているのではないかと、このごろ強く思うようになった。そのことにも言及していきたい。

私は心の病気だ

私には中学、高校、大学の10年間の学生生活の記憶がほとんどない。身体は学校へ行っていたけれども、心は行っていなかったのだろう。学費を支払ってくれた親にも申し訳ないが、充実した学生生活が送れなかったことに、なんてもったいなかったのだろうと思う。自分にはいわゆる青春時代がなかったのだと、寂しく悲しい思いが今もある。

自分が心を病んでいると気がついたのは19歳の夏だ。その瞬間のことははっきり覚えている。名古屋の実家から2時間ほどのところにあった大学に電車を乗り継いで通っていたのだが、やはり名古屋方面から通学していた同じ学部の学生数名と帰宅するために電車に乗っていたときのことだ。自分はみんなといっしょにここに居るけれども、全く誰とも触れ合うことができていない。まるでガラスのカプセルの中に入っているようだ。人も物事も、すべてが遠くに感じる“離人感”に突然気がついたのだ。
そして、いつも自分や周りを上から見ている、もうひとりの自分の存在を強く意識するようになった。その自分は氷のように冷たく、自分は特別な人間で何かを為すことができると思っており、現実の自分や周りを見下し、現実の自分を「このままではダメだ」と常に責め苛んでくるのだ。

そのことに気がついてから、自分は心の病だ、異常だという思いがどんどん強くなり、夏休みに入った途端に、カーテンを閉めて部屋に閉じこもるようになってしまった。

私はその大学に行きたかったわけではなかった。美術館や博物館で勤務できる学芸員になるべく、奈良女子大を受験したけれども落ちてしまい、浪人するほどの学力も気力もなく、仕方なしに行った大学だった。東洋史学科の中国史専攻だったが、全く興味を持てなかった。それなのにやめることもできなかった。美術愛好家の私は、絵画や古いものが大好きで、中国の青磁や白磁、陶傭(お墓に入れた人物や馬などを模した焼き物)は好きだったが、その大学では美術の勉強はできなかった。

突然引きこもるようになった私の様子に驚いた母は、区の保健所に相談に行き、名古屋の中心地でクリニックを開いている精神科を紹介され、その後5年間通うことになった。その間、精神安定剤を飲み続けることになった。精神科に通い、薬を飲み続けても、何ひとつ解決できなかったのだけれども。

私の大人になってからの記憶は苦しかった心の病と、あまりにも鮮烈な精神病院での出来事から始まるのだ。他のことは何も覚えていないのに、精神病院での出来事だけは身体を離れたもう一人の冷静な自分が、上から見ていたかのように覚えているから不思議なのだが。
その体験について書く前に、まずは子どもの頃のことから書いていこうと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?