見出し画像

里山暮らしはやめられない      2019年9月 福島にて(後編)

国道6号線

家の解体のための立ち合いをした次の日は、飯舘村で震災前から営んでいた農家レストランを再開した、心優しい飯舘のお母さん、ちえこさんに会いに行く。ちえこさんは福島市内に中古住宅を購入して生活しているのだが、飯舘に通って店を切り盛りしていた。また、飯舘村から山形県小国町に移住した友人、なっちゃんも来てくれて、ちえこさんのお店で3年ぶりに再会。昼食を頂きながら楽しい時間を過ごすことができた。
こちらへ来て、離れ離れになってしまった福島時代の友人たちとは会えなくなってしまった。ときどき、どうしているかなあと思うばかりである。

再開されたちえこさんの農家レストラン

午後には沿岸部に向って出発。飯舘村は内陸部の福島市と沿岸部の相馬地方の真ん中に位置する高原地帯なので、山道をひたすら下っていく。そして、国道6号線を走って、帰還困難地域の双葉町、大熊町、富岡町の一部を通過していわき市へ。
あいにくの小雨交じりの空模様で全く見えなかったが、津波でメルトダウンした福島第一原発のほど近くも通った。

車窓から見えた帰還困難地域の様子にはさすがにショックを受けた。震災から8年が過ぎていたが、国道沿いには廃墟となった飲食店、ガソリンスタンド、ホームセンターなどがそのまま残されており、飯舘の我が家と同じく草木に被われていた。圧倒的な自然の力が押し寄せてきていた。

車窓から撮った帰還困難地域の様子

その風景は、どこか既視感のあるものだった。それはアニメに出て来る、核戦争などによる現代文明崩壊後の世界そのものだったからだ。
私は子どもの頃『未来少年コナン』というテレビアニメが大好きだったのだが、『風の谷のナウシカ』然り、『天空の城ラピュタ』も、宮崎駿のアニメはどうして文明崩壊後の世界ばかりを扱うのだろう。宮崎駿に限らず、どうしてアニメや映画にはそういう世界が溢れているのだろう。まるでその時に備えて学んでいるかのようではないか。
帰還困難地域の風景を眺めながら、そんなことを考えた。

双葉町と大熊町には、福島じゅうから、除染で出た土などの汚染物質を詰め込んだフレコンバックを運び込んで保管する、1600ヘクタールにわたる「中間貯蔵施設」が建設され、すでに搬入が始まっていたから、そこへ至る道には白い防御服を着た警備員らしき人が立っているのが見えた。道沿いに建っていた線量計は7マイクロシーベルト/hだった覚えがある。放射線管理区域(レントゲン室など)で0.6マイクロシーベルト/hなので、その10倍以上の線量だということだ。
私たち一般人は国道を通り過ぎることはできるけれども、脇道へ入ったり、止まって外へ出ることは禁じられていた。
放射能に汚染されていて、防護服を着ないと外にも出られないなんて、ナウシカの世界そのものではないか。そんな世界が私たちが暮らすこの日本に、今も存在しているのだ。

帰還困難地域のことを、まるで現代文明崩壊後の世界のようだなんて書いたけれども、そこで暮らしていた住民のみなさんが、今どんな気持ちで過ごしているのか、被災者であった私にも想像することもできない。
2017年に飯舘村は、帰還困難地域である長泥地区を除いて避難解除された。その時点で私は避難者ではなくなった。恵那市に住民票を移したから、飯舘に自分の土地があるけれども、私はもう飯舘村民ではない。
帰還困難地域の住民は10年経っても避難者のままだ。

あの場所を置き去りにして、オリンピックが開催され、2025年には大阪万博も開催されるようだし、リニア中央新幹線なるものの建設も始まっている。まるで高度成長期よ、もう一度!とい言わんばかりの、後戻りしているような日本のあり方に、置き去りにされているのはどちらなのだろうかと思う。

塩屋崎灯台横の砂浜

福島の海は美しかった

ところで、私が今回沿岸部にどうしても行きたかったのは、国道6号線を走って帰還困難地域の現状を見てみたいということ、震災後一度も行ったことがなかった福島の海が見たかったこと、そして、もう一つはいわきへ魚が食べに行きたかったからだ。
それは亡夫、彰夫さんの最期の願いだった。入院中の病室で「退院したらどこへ行きたい?」と聞いた際の答えが「いわきへ魚を食べに行きたい」だった。結局、その願いは叶わなかった。
それからというもの、私の中には「いわきへ魚を食べに行きたい」という思いがあったのだが、福島で暮らしている間は実現することができなかった。今回、福島へ行くことが決まったとき、真っ先に思ったのは、「いわきへ魚を食べに行く」だったのだ。

震災前までは、いわき産の水産物は「常磐もの」と言って、おいしいと有名だった。原発事故後、いわきの漁業は大打撃を受け、沿岸漁業は操業停止、沖合漁業のみがすぐに再開されたが、風評被害に苦しんできた。2013年からは沿岸漁業も「試験操業」という形で再開され、放射性物質のモニタリング検査で数値が基準以下の魚が出荷されるようになり、今に至っている。
その夜は、ネットであらかじめ調べておいた魚料理がおいしいという居酒屋へ、次の日は魚市場の二階にあった回転寿司屋さんへ行き、常磐ものを堪能。念願がやっと叶って大満足だった!

次の日はとても良い天気で、映画『喜びも悲しみを幾歳月』や、美空ひばりの歌「みだれ髪」に出て来る「塩屋の岬」という歌詞で有名な、塩屋崎灯台へ行き、周辺の浜辺を散策した。

塩屋崎灯台

Tさんは登らないと言ったので、私はひとりで灯台に登り海を眺めた。
12年間の福島での日々が胸に去来し、目頭が熱くなる。
夫の急逝、震災原発事故、避難生活と、大変なこと続きだった12年間だったけれども、だからこそ学びの多い日々だった。私を人として成長させてくれた福島は、私の故郷だと思っている。

福島の海は静かで美しかった。
あの日、この海が巨大な津波となって襲って来て、
福島第一原発はメルトダウンし、
多くの命を奪い、
暮らしを奪ったということが、
俄かには信じられないほど、美しかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?