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里山暮らしはやめられない      2019年9月 福島にて(前篇)

解体を決める

「薪焚く日々」の中でも触れたように、こちらへ移住してから3年目、2019年の冬に飯舘の我が家は解体した。隣にあった古い牛小屋と作業小屋も解体したので更地になった。あれから2年以上が過ぎたから、家の裏にあった竹林が広がり、小さな木も生え始めているかもしれない。

福島で暮らしている間は、移住先が決まった後も、どうしても家を解体することはできなかった。そのまま置いておけば徐々に朽ち果てて行き、100年もすれば森に呑み込まれるだろうなどと考えていた。それで納得をし、そのまま置いて出て来てしまったのだ。
けれども、いつも心のどこかに引っかかっていた。

それなのにどうして解体することに決めたのかというと、離れたことで気持ちの整理ができたということもあるし、現実問題として、震災後免除されていた固定資産税が2021年から徴収されることになったと、飯舘村役場から通知が来たからだ。そこには、家を解体すれば宅地も「雑種地」となるあり、環境省が解体費用を出してくれるのは19年度までとも書かれていて、決意した。

私は自分が生きている限りは飯舘の土地を所有していく訳で、固定資産税を払い続けなければならない。売ろうと思っても売れないだろうし、売れたとしても良からぬ目的に使用されそうなので売りたくないし、大切な場所だから持ち続けたいという気持ちが強いので、少しでも安くして払い続けられるようにしたかった。
昨年、固定資産税の請求書が来たとき、8000円という金額に胸をなで下ろす。震災前の10分の1ほどにまで下がっていたからだ。

環境省、業者、区長さんが立ち会って

3年ぶりの飯舘の我が家

解体のためには立ち合いが必要だということだったので、2019年9月、3年ぶりに飯舘村の我が家へ行くことになった。福島駅近くでレンタカーを借りて、夜は再開した飯舘村の宿泊施設「きこり」に泊まり、次の日は、沿岸地域へ下り、国道6号線を走って、帰宅困難地域の双葉町を通過して、いわき市まで足を延ばした。原発の近くも通った。

当日は少し緊張しながら飯舘村へ入った。県道沿いには戻って来ている家も何件かあり、3年前に比べると生活の気配が感じられるようになっており、ほっとする。
通い慣れたはずの我が家への道が途中でわからなくなり、迷ってしまったことにはショックを受けた。少し遠回りして我が家にたどり着いたが、家に上がって行くための坂道は背の高い草に被われてしまい、坂の下に車を停めて、草をかき分けながら歩いて家にたどり着く。

家は変わらずそこに在ったけれども、裏の竹藪が迫って来ており、草と木々の中に埋もれるようにして建っていた。家の真ん前にあった大好きだったしだれ桜は、藤などのつる性植物にすっかり被われて、見る影もなかった。
一町分(1ha)あまりの田んぼがあり、一番上には溜池があるのだが、田んぼの姿が全く見えないほど草に被われ、すでに木も生えてきていた。

飯舘の我が家は7件ある集落のどん詰まりにあり、南西には広大な森林が広がっている。人工林と雑木林が混在し、雑木林の中では、春から夏にかけていろいろな花、アズマイチゲ、カタクリ、エビネ、エンレイソウ、ヒトリシズカ、クリンソウ、フシグロセンノウなどが次から次へと咲いて、季節ごとに見に行くのが楽しみだった。
戦後、満州から帰還した家族が開拓した場所だった。70年間は人が手を入れて、宅地や田畑として使っていた土地がまた森へと還りつつあるのだった。

この奥に田んぼがあった

心の拠り所

私は出かける前に、荒れ果てているに違いない我が家と田畑の様子を思い浮かべて、きっとショックを受けるだろうから、とても一人では行けないと思い、Tさんに付き添ってもらった。
ところが、確かにショックは受けたのだけれども、思っていたほどではなかったのだ。

里山の風景は人の手が入ることで成り立っている。人の手が入らなくなれば、あっという間に自然に呑み込まれてしまう。その圧倒的な力の前では人はひれ伏す以外ないのだ。
そこに残留している放射性物質をも包み込むようにして、驚くようなスピードで、飯舘の我が家は自然に還りつつあった。人間が築きあげて来たものがすべて崩壊してしまったという意味では荒れ果てていると言えるけれども、自然の方から見れば、そこは生きものたちの楽園に変わりつつあるのだということで、そのことに私は大きな喜びを感じたのだ。
もちろん、自然に還してしまうなんて、飯舘村や帰還した人たちにとってみれば、喜ばしいことではないだろう。でも、これ以外にどうすることもできないので、許していただくしかない。

美しかった飯舘の我が家の里山の風景、そこで営まれていた暮らし、そのすべてが失われてしまった。2000年に亡夫が建てた家は、築20年にも満たないうちに解体されてしまった。
そのことはほんとうに悲しいことだけれども、私の記憶の中では、在りし日の姿まま存在し続け、そこで営んでいた里山暮らしは、この場所での里山暮らしに引き継がれている。
そういう意味では失われていないのだ。
そして、現実の世界では、自然に還りつつ、多くの生きものたちを育みながら存在し続けている。
二つの異なる在り方で、飯舘の我が家だったあの場所は、私の心の拠り所となってい

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