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里山へ至る道            精神病院へ至る道

カルトだったのかもしれない

あの団体はいったい何だったのだろうか?今でもときどき思う。
大学を卒業して就職することもなく家に居るようになった私は、日々をどんなふうに過ごしていたのかあまり覚えていないけれども、名古屋三越のできたばかりのケーキ屋さんでバイトをしたり、アルバイトに行っていたことは覚えている。お菓子を自分で作るのも食べるのも好きだったからだ。
三越でのバイトをどうしてやめたのかは覚えがないが、次のバイトを探そうと思って新聞の求人欄を見た。そこで「ケーキを喫茶店に卸す仕事」という応募を見つけてすぐに電話をして、名古屋の中心地にあったオフィスに面接に行った。

思い出すのはがらんとした、いかにも普段は使っていなさそうな事務所の風景だ。おそらくその事務所は私のような若者を採用するためだけにあったのだろう。そこには中年の男と女が居た。女はそのころ流行りのボディコンのスーツを着て、化粧の濃い派手な感じがする女だった。男は小太りの「たぬきおやじ」だった。私はなぜかべらべらと自分の状況を話してしまったような覚えがある。その場で採用が決まり、次は名古屋の住宅地にある事務所に来るように言われた。

そして、後日その場所に行った。そこでは本当にケーキを喫茶店に卸す仕事はしていたようだった。そこで作っていたわけではなく、どこからか仕入れたものを卸す仕事だったと思う。
そこからどうしてそういうことになったのか覚えていないのだけれども、大阪の事務所にいっしょに行くことになり、車に乗せられて、夕方ごろに出発し、高速道路を走り、大阪まで連れて行かれた。そこは、以前はどこかの会社の寮だったのではないかと思われる建物だった。

着いたときは真夜中だったのではないだろうか。私は極度の疲労で朦朧としていたのだが、その建物の食堂のような広い部屋で、自分と同世代の若者たち20人ほどが、演歌のような音楽に合わせて、宙に浮いたような目をして踊っていたのをはっきり覚えている。
私は例の化粧の濃い女の部屋に、その女といっしょに泊まった。そこは狭い部屋だったのだが、洋服箪笥には、クリーニングから返ってきたままのビニールに入ったボディコンのスーツがたくさん並んでいたのが印象に残っている。

その場所で何かを食べた覚えは全くない。次の日はどうしていたのかも覚えていない。
おそらく、連中は私をもう家には帰さないつもりだったのだと思う。なんて言われたか覚えていないが、「家には帰らず、このままここに残らないか」と聞かれたのだと思う。私は頭が朦朧としていて、判断ができない状態になっていたように思うのだが、身体の方が反応してくれて、突然生理になってしまい、とにかく一度家に帰りたいと言った覚えがある。しかも、結構頑なに帰ると言い張った覚えはある。おかげで今の私があるのだ!

それでまたその女といっしょに車に乗り無事名古屋へ帰ることができた。実家の前まで送ってもらい、その女といっしょに玄関の前まで行き、扉を開けた途端に、いつもは冷静沈着な妹が飛び出してきて、その女が差し出したお土産のケーキの箱を庭めがけて投げつけて、「帰れ―!」と怒鳴った記憶がある。妹よ、ありがとう!

家では私が誘拐されたと、大騒ぎになっていた。そのころすでに問題になっていたカルトに拉致されたに違いないと、警察官の従兄に連絡して捜索をするという話しにまでなっていた。
それも全く覚えがないのだが、どうやら私は家に連絡もせずに大阪に行き、一泊して、次の日の夕方に戻って来たようなのだ。
迷える若者を捕まえる、どんな手を使ったのだろうか。その新聞の求人広告は、ほんとうに小さなもので、何も変わったところはなかったように思う。
あの場所で宙に浮いたような目をして踊っていた若者たちは、きっと全国から集められた迷える若者たちだったのではないだろうか。

私は家に戻ってからしばらく「あそこに戻らなければならない」という思いに囚われて苦しんだ。たった二日間だったのに、洗脳されてしまったのだ。普通の精神状態ではなかったから余計だと思うが。このことをきっかけに、私の精神状態は悪化していってしまった。

同世代

このことを思い出すとき、私はオウム真理教事件のことを思わずにはいられない。

2018年に死刑になったオウム真理教の幹部たちの多くと、私は同世代なのだ。私は彼らのことを自分とは違う凶悪な人間だとは全く思わない。むしろ、私も彼らの側に居たかもしれないという思いの方が強い。
この文章を書くために、以前から読んでみようと思っていたオウム真理教関連の本の中から、幹部のひとりが書き、死刑執行後に出版された『悔悟 オウム真理教元信徒 広瀬健一の手記』を選び読んだ。被害者、ジャーナリスト、学者など、こちら側の視点から書かれた本はたくさんあると思うが、私はあちら側の視点で書かれたものがどうしても読みたかったのだ。

彼は昭和39年6月生まれだから、40年3月生まれの私と学年が同じだ。彼がオウム真理教に入信したのは大学院2年生だった1988年。私の心の病が悪化して、精神病院に入院することになった年と重なっている。
彼は高校3年生のときに、結局すべては無に帰してしまうのではないかという「むなしさの感情」に囚われ、果たして生きることに意味はあるのかという「生きる意味」の問への答えを求めて、古今東西の宗教書や哲学書を読み漁る。けれども納得のいく答えは見つからず、一旦は棚上げにして学業やアルバイトに励んでいた。そして大学院一年生のときに偶然書店でオウム真理教の教祖、麻原彰晃の著書に出会い、何冊かを読む。本を読んでから一週間くらい経ったときに、読んだだけなのに、本に書かれていた修行の過程で起こる神秘体験が身体に現れ始めたために、オウムに入信。大学院卒業と同時に出家する。
その後は、いのちに関わるような危険な修行を繰り返し、その都度神秘体験を重ねていくうちに、麻原の説く教義が真実であると信じる様になり、ついには地下鉄サリン事件の実行犯となる。
人生を決めるのは出会いであると思うのだが、彼は偶然出会ってしまったものが悪かったのだ。それこそ魔に魅入られた瞬間だったのではないだろうか。

この本は、彼が獄中でオウムからの脱会を果たした後に、深い悔悟の念を抱きながら、身を削るようにして書いたものだ。
読んで、以前、新聞やテレビの報道では理解できなかった、なぜ彼らが殺人を犯すに至ったのかということがよくわかった。彼を含めた幹部たちはみな、麻原が説く、悪業を積んだ、オウム信者以外の現代人すべてを殺してその魂を救うという「ヴァジラヤーナの救済」を心から信じて実行に及んだのだ。
そこに至る自身を含めた信者の心理状態と行動、教団の武装化の過程が克明に記されている。これを書くのに彼はどれほどの精神力を必要としたことだろうと思う。
若さと純粋さは、時として、身の破滅を招くものであると、破滅の一歩手前まで行っている人間として、身につまされる思いでこの本を読んだ。

彼は一般社会での人生で経験するであろう悲喜こもごもをほとんど経験することなく、22歳から30歳までの時間をオウムでの修行と、麻原の迷妄の遂行に捧げ、その後の20年あまりを獄中の独房で過ごし、54歳で処刑されていのちを終えた。被害者や遺族からは何を言っているんだとお叱りを受けそうだが、そんな彼を悼む気持ちは深まるばかりだ。
獄中で脱会を果たした後は、自身の犯した罪の大きさに打ちのめされ、苦しむ日々を送っていたに違いない。それでも、本来の自分を取り戻し、本書を後の人々のために執筆することがきたことは、せめてもの救いだったのではないだろうか。
ただ、彼の母親の悲しみと苦しみを思うと居たたまれない気持ちになる。最愛の息子をオウムに奪われ、人殺しにされた上に、死刑によって永久に奪われてしまったその人は、その後の人生をどうやって送っていらっしゃるのだろうか。

確かにこの世は、戦争、環境破壊、大地震、原発事故、パンデミックと、苦悩に満ち満ちている。私のその後の人生も、他の人に比べると苦悩が多い方だったかもしれない。
それでも私は、こちらの世界へ戻って来ることができて、これまで生きてくることができてほんとうに良かった。おかげでこれまで、苦悩も多かったけれども、それも含めて様々な経験をして、多くの出会いにも恵まれて、豊かな人生を送って来ることができたのだと、この本を読んであらためて思った。
いまだに私は「生きる意味」を求めてしまうところがあるのだけれども、どんなに酷い世の中だったとしても、その世の中で喜びや悲しみや様々な感情を味わいながら、与えられたいのちを生きていく。ときには、そんな世の中に翻弄されて押しつぶされそうになりながらも踏み止まったり、小さな抵抗を試みたりしながらも、投げ出さずに生きていく。
そこに意味があるのかないのかは、人間にはわからないのだと思う。

寄る辺なく漂う果てに

私たちの世代は、日本全体が物質的に豊かになり、多くの若者が当たり前のように大学に行って学ぶことができる、今の時代の先駆けとなった世代だと言えるだろう。
こんなにも豊かな時代に生まれ育った私たちが、なぜオウムに走ったのだろうか?

里山の自然とつらなる世界でコミュニティの一員として生きていた時代からは遠く離れ、若者が戦場に駆り出された戦争の時代が終わり、みんな必死で生きていた戦後の復興期を経て、高度成長期に入り、若者たちが国家という外側の力と闘った学生運動も終わり、寄る辺なく漂う私たち世代は、自分の存在に現実感を持つことができない。食うに困らない私たちには考える時間がたっぷりと与えられている。
そんな私たち世代の中で、物事を深く考えずにはいられない性質の者たちが、「生きる意味」などの形而上的問題にぶち当たり、ひとりでひたすら考え抜き、袋小路にはまり込んで行った結果のひとつがオウム事件だったのではないだろうかと私は思う。私のように心を病み、自死した若者もたくさんいたのではないだろうか。
私はカルトには入らずに済んだけれども、方向性としては同じだったのではないだろうかと思っている。だから、オウムの事件を他人事には思えないのだ。

さて、カルトだったかもしれない団体から戻った後、私は家で引きこもる日々を、どんなふうに過ごしていたのかは覚えていないけれども、あるときから「死にたい、死にたい」と一日中思うようになってしまった。高い建物の屋上から飛び降りて死ぬということが常に頭に浮かぶのだけれども、本当に実行するのなら、夜中に出て行って飛び降りればよかったのだけれども、実際に屋上に上ってみることすらなかった。
本当に死にたかった訳ではなく、社会に出ることもできず、挙句の果てに、カルトのようなものに引っかかりそうになる情けない自分を消してしまいたかったのではないだろうかと思う。

母に死にたい、死にたいと訴え、外に飛び出て行こうとする。その度に母は私を押さえ付けて出て行かせないようにする。どんどん錯乱状態のようになってきて、(こうして覚えているので本当に錯乱していた訳ではないが)自分でも自分をどうすることもできず、子どものように泣き喚いたりしていたような気がする。母はそんな私をタクシーに乗せて、精神科まで連れて行き、安定剤の注射を打ってもらって落ち着かせたりしていた。母には本当に迷惑と心配をかけた。父親の前では決してやらなかったから、父は私のそんな姿を見たことはないのだが。
また、精神科でもらった安定剤を一度に全部飲む「オーバードーズ」をやって、全身に真っ赤な発疹が出てしまったこともあった。もう身体もボロボロになっていたのではないだろうか。

そんな状態が続いたある日、このままでは母も共倒れになってしまうということで主治医から入院を勧められ、私ももうそれ以外に仕方がないと思い、精神病院への入院が決まった。
そこは、実家から車で30分くらいの、珍しく住宅地の中にあった病院だった。名鉄電車のとある駅から徒歩で15分くらいだった。まだあるのだろうかと思ってネットで調べてみたら、建物は建て替えられて、病院の名前も変更されていたけれども同じ場所に今もあった。
二階にある、窓には鉄格子がはまり、防火扉のような分厚い鉄の扉で閉め切られた閉鎖病棟に入院したのだった。入院した部屋は畳敷きで、3人部屋だった。

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