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里山へ至る道            高度成長期に生まれ育って

私の原風景

私は1965年(昭和40年)、東京オリンピックの次の年に生まれた。
日本は高度成長期の真っ只中で、どんどん物質的に豊かになっていく、右肩上がりの時代だった。
両親と3人姉妹の5人家族。父は大企業のサラリーマン、母は専業主婦、核家族で社宅に暮らす、あの時代の典型的な地方都市の中流家庭だったと思う。
父が勤めていたガス会社の社宅の4階で小学校3年生まで過ごした。社宅には同じ年頃の子どもたちがたくさん居て、みんなきょうだいのように育ったから楽しかった。社宅の周辺で遊んだり、部屋を行き来したり、夏休みにはいっしょに会社の保養所に行ったりした。それは子ども時代の楽しい思い出になっている。

社宅は名古屋港へと続く工業地帯の入り口にあった。真ん前にはテニスコートがありその手前には大きなポプラの木が寂しげに並んでいた。その奥のブロック塀の向こうはガス会社の工場で、大きなガスタンクとコークスの山が見えた。その灰色の世界が私の原風景なのだ。
両祖父母も名古屋だったので、私には田舎というものが存在していなかった。自然と触れ合うのは、夏休みに海や山に3か所あった会社の保養所に行ったときくらいだった。
ただ、両親とも生き物が好きで、ベランダで、郊外へ出かけたときに採ってきたザリガニやウシガエルのおたまじゃくし、アゲハチョウの幼虫などを次から次へと飼っていた。家の中ではいつもセキセイインコやオカメインコなどの鳥を飼っていて、生きものたちと触れ合う機会は多かった。それは今の私の生きもの好きへとつながっている。

核家族の子育て

私は3歳上の姉と2歳下の妹に挟まれた真ん中で、いわゆる疳の虫が酷い子供だった。ギャーギャー泣き喚いてばかりいた覚えが自分でもある。外面はすごく良くて、家ではやんちゃばかり言っている、かなり育て辛い子供だったと思う。
父はそんな私を受け入れることができず、怒鳴られたり、押し入れに閉じ込められたり、前の空き部屋に閉じ込められたりした。母はそんな私を持て余し、近くを流れていた中川運河に私を抱いて身投げしようかと思ったこともあったと、大人になってから聞いた。

父は今でいうコミュニケーション障がい的なものを持っている人だとは思う。音にとても敏感だから、私の泣き声などは、さぞかし耐え難かったに違いない。父はいつも何かにイライラしているようで、家では怒鳴ってばかりいたという印象しかない。笑った顔を見たことはなかった。会話らしい会話をしたこともなかった。だから父のことは大嫌いで、まともに顔を見ることもできないくらいだった。父は現在86歳になったが相変わらずで、母は父の我儘にさんざん振り回されてきたけれども、結局最後は父を受け入れて、今もいっしょに暮らし続けている。
悲しいけれども、私は今も父を好きにはなれない。

昨今、“毒親”という言葉が使われるようになっている。過干渉であったり、言葉や肉体的な暴力を振るったり、ネグレクトをしたりする親のことを指す。そういう親に育てられトラウマを背負った子どもは、大人になってから心身の様々な不調に見舞われ、社会生活が困難になるということが、広く認識されるようになっている。

私の父親が“毒親”なのかといえば、その一歩手前くらいかなと思う。言葉の暴力は酷かったけれども、肉体的な暴力は受けていないし、お金を家に入れないようなこともなかったし、娘3人を大学(姉は東京の美大の短大)まで出してくれたことは、ありがたいことだと思う。
だから、父との関係が私の心の病の原因のひとつではあるけれども、すべてではないと思っている。

私が生まれたとき、母は26歳、父は30歳。その2年後には妹が生まれた。狭い社宅の密室での3人の子どもの子育ては、とても大変なことだったのではないだろうか。
父も母も若く、未熟な親だったのだ。多くの親が同じなのではないだろうか。社宅で一番仲の良かった幼なじみのMちゃんと昨年電話で30年ぶりくらいに話しをする機会があり、初めて彼女の仲良さそうに見えていた家族にも大きな問題があったことを知った。社宅でみんなきょうだいのように育ったといっても、家族の問題は密室の中に隠されていて他に知れることはなく、解決はすべて家族だけに委ねられていたのだ。

以前、NHKスペシャル「ママたちの非常事態!?最新科学で迫るニッポンの子育て」という番組を観た。
人間は進化の過程で「みんなで協力して子育てをする」=「共同養育」という独自の子育てスタイルを確立した。人間の母親たちは、今なお本能的に「仲間と共同養育したい」という要求を感じながら、核家族が進む現代の環境でそれがかなわない。それが母親の強い不安・孤独感を生み出しているということが語られ、今なお共同養育の伝統が受け継がれている、アフリカ・カメルーンの部族を訪ね、その驚きの子育ての様子が紹介されていた。
私はこの番組を観て深く納得したのだった。

おそらく私が生まれ育った高度成長期あたりから、特に都会では核家族が密室で子育てをするような形が定着し、現在に至っていると思うのだが、本来人間に備わっている「仲間と共同養育したい」という欲求を無視したこの家族のあり方によって、虐待の問題は起こるべくして起きているのではと、私は考えている。

有松の思い出

ところで、この時代は「公害」というものが社会に現れてきた時代だった。現在では聞かれることはなくなったけれども、光化学スモッグ警報が頻繁に出されていたように思う。世界はアメリカとソビエトが対立を深めていた冷戦時代で、核実験が頻繁に行われていたから、放射能汚染の危険もあった。

社宅の周辺も非常に空気が悪く、母が体調を崩してしまったために、まだ自然が残っていた名古屋の郊外、緑区有松町に建てられたグリーンハイツという名のマンションに、小学校4年生に上がるときに引っ越した。
1975年のことだ。

有松絞りで有名な有松町は東海道の宿場町で、旧道沿いに古い建物が残り、絞りの工房もいくつか残っていた。町を流れる藍染川はシーズンになると藍色に染まっていたことを覚えている。6年生のときの学習発表会で、絞りの工房を訪ねたときのことを発表したのだが、床に埋められた大きな甕に入った藍の染料の独特の発酵臭を忘れることができない。
お祭りのときにはからくり人形が乗った山車が出て、往年の宿場町の面影を残すとても良い町だった。あのころはまだ自然も残っていて、自然との触れ合いも体験することができた。

グリーンハイツは2階建てか3階建ての建物が山の斜面にいくつも並んでいるという形式だった。山の一部にはまだ自然が残されていた。
麓には有名な桶狭間の古戦場があり、マンションの地名「生山(はえやま)」は落武者が這って逃げたからだと聞かされた。
古戦場の近くには桶狭間病院という精神病院があったことは、その後の私の運命を暗示しているかのようだ。精神病院から紫色の車が迎えに来て連れて行かれると、子どもたちの間で噂されていたことを思い出す。
マンションの奥にはまだ開発途上の草木が全く生えていない造成地が広がっていて、探険ごっこなどをして遊んだ。その更に奥には愛知用水が流れていた。コンクリートで固められたすり鉢状の水路をものすごい勢いで水が流れる様子は怖ろしく、落ちた子どもの爪の跡が残っているという噂がやはり子どもたちの間で流れていて、みんなで見に行ったりした。

高度成長期に生まれ育ったということ

洋式のトイレにユニットバス、システムキッチンという最新式のマンションに引っ越したときは本当にうれしかった。一階には小さな庭が付いていて、母はガーデニングに精を出し、私も苔を採って来て育てたりした。黒いウサギも飼っていた。
大喜びで暮らしていたあのマンションが、里山を皆伐して、そこで生きるものたちから住処を奪って作られたのだということに思いが至ったのは、つい最近のことなのだ。
私は原発事故に被災し、その後、水俣病事件を描いた石牟礼道子著『苦海浄土』三部作を読む中で、あのマンションで起こった数々の不吉な出来事を思い出すようになった。

我が家の上には若い夫婦を暮らしていたのだが、奥さんがガス自殺された。別の棟の青年が縊死。マンションの横にあった住宅地に暮らしていた家族が一家心中をした。その中に同級生の男の子がいたと思う。他にも同じ建物の二階で暮らしていた女の子が交通事故に遭い、顔にタイヤの跡がついてしまったりと、私たちがそこで暮らしていた5年ほどの間に次々と不吉なことが起こった。同じマンションの住民で同級生だったNちゃんが、金縛りに遭ったら落武者の姿が見えたと言っていたことも思い出す。

破壊してはいけない場所というものがあるのではないかと思うのだ。昔から日本ではそういう場所を冒せば祟りがあると言われて来たけれども、日本人が“神”として自然を恐れ敬うことで培ってきた精神性が、身の周りの自然=里山をどんどん破壊していったことによって、知らず知らずのうちに破壊されてしまったのではないだろうか。
自然を破壊するということは、自然の一部である自分たち人間をも破壊することに他ならないという、当たり前のことに私たちは気がつくことができず、破壊を繰り返している。そして、結局は私たちも壊れていく・・・
そんなふうに思うのだ。

我が家の入り口に鎮座なさる、道祖神、子安さま
そして、山の神

『苦海浄土』第二部の最後は、”掃除神さん”(掃除好き)だった愛娘を劇症型水俣病で喪ったトキノさんの、典雅ともいえる語りで締めくくられている。この長編の中でも好きな部分のひとつだ。
チッソの裏山は昔「しゅり神山」という立派な名前を持っていたのに、明治時代に山の一部を発破で破壊してチッソが来てから、会社の裏山と呼ばれるようになった。その「しゅり神山」について、次のようにトキノさんは語る。

ほんに、あそこが、しゅり神さんの表山よ。菜の花の蝶々の山で、狐たちの山で。裾には井川まであって、万病の神さんで、大園の塘(うぞんのとも)の女郎衆が願かけに来よらしたげなですよ。誰も詣らんごつなって粗末にしてから、水俣病まで出て来たと、私は想うとります

苦海浄土 第二部 神々の村 
第三章 実る子
  

私が生まれ育った高度成長期とは、日本中で多くの里山が破壊され、里海が汚染された時代であったといえよう。チッソが海に垂れ流した有機水銀による水俣病事件が起こったのもこの時代だ。
里山や里海への信仰が失われた時代だとも言えるだろう。
私が何の疑問も持たずに享受し続けてきた豊かさの裏側で、自然がどんどん破壊され、排出された汚染物質によってたくさんのいのちが奪われていたのだ。
私は自分の心が壊れたこととこの事実は、深いところでつながっているのではないかと、最近強く思うようになった。

有松では中学校2年生まで過ごし、父方の祖父の介護が必要になったため、祖父の家がある名古屋市南区へと引っ越した。そこには現在も両親が暮らしている。
すぐ近くを名鉄電車が走り、国道一号線につながる家の前の道路をトラックが轟音を立てて通り、その度に家が揺れる。庭と近くの神社と公園には小さな自然が存在していたけれども、それ以外はコンクリートとアスファルトだらけの灰色の街で再び暮らすことになった。

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