見出し画像

里山へ至る道            そして心は病んでいった             

三人姉妹

前回、私は疳の虫の酷い子供だったと書いたが、それは幼児のときのことだけではなく、小学校の4、5年生くらいまで、癇癪を起すと泣きわめくことをしていたような気がする。外ではとても良い子を演じていたけれども。
そんな自分はダメな人間なんだ。なんとかしなければならないと思ったのもこのころかと思う。
3歳上の姉は、小学生のころは勉強ができて、一生懸命勉強をしていた。だから自分もがんばらなくてはいけないと思った。ダメな人間である自分は一生懸命がんばって、周りに認めてもらわなければならなかった。

ただ、姉は中学校へ行くとあまり勉強をがんばらなくなり、新設されたばかりの高校へ行き、東京の美大の短大へ行った。ビートルズの大ファンだった姉は、(毎日聞かされて私もファンになってしまった)中学生のときに、そのころはすでに解散していたのだけれどもフィルムコンサートというものがあり、悪友と二人で始業式か何かをすっぽかして行って、学校で問題になったりしていた。姉は中学、高校、短大とすごく青春時代を謳歌していたように思う。
短大を卒業すると名古屋へ帰って来て大手の建設会社に就職し、建物の外観図「パース」を描く仕事をしていた。そこで出会った男性と職場結婚して退職。二人の子供にも恵まれた。あの時代の女性の行くべき道のひとつを歩んだと言えるのではないだろうか。

2歳下の妹も勉強ができた。彼女は中学時代も成績が良く、進学校へ進み、一年浪人して医学部に入り、現在も小児科医の仕事を続けている。結婚もしてやはり二人の子どもに恵まれている。

姉や妹も、これまでの人生で、様々な悩みや葛藤を抱えながら生きてきたことだろうけれども、概ね順調に来たと言えるのではないだろうか。
三人姉妹の中で私だけが大きく本流から外れた人生を歩むことになってしまった。現在、姉も妹も名古屋の街中で暮らし、私だけが里山暮らしをしている訳で、二人は私のことを理解できないと思っているかもしれないが、私たちは仲の悪い姉妹ではない。ほとんど会わないけれども、いざとなれば助け合えると思う。

以前、そんなことを言ったことはないと否定していたけれども、専業主婦だった母は「専業主婦なんてつまらない。女も仕事を持って社会で活躍すべきだ」というようなことを常々言っていたように思う。家では暴言ばかり吐く、わがままな父親にうんざりしていたから、男はみんなあんなものだ。男に頼らず生きていかれるように、自立しなければならないと強く思ったということもある。妹はがんばって勉強し医者になり、母の期待に見事に答えたのだと思う。


私は大学まで行っているけれども、実は勉強ができなかった。特に数学が苦手。高校の数学はもうチンプンカンプンで、いつも追試だった。英語もダメ。物理や化学はもちろんダメ。かろうじて国語と歴史ができたくらい。そうはいっても古典の文法は苦手、世界史は得意だけれども日本史は苦手と、やはり全体としてできなかった。すべてが靄の中にあるようにはっきりしなかった。

根気というものがなくて、何をやっても続かない。ピアノを習っていても、すぐに嫌になってやめてしまう。妹はコツコツ続けて、ベートーベンのピアノソナタ第8番「悲愴」が弾けるくらいまでになった。何でもできる妹が妬ましく、いじめたし、喧嘩ばかりしていた。今はもう全くそういう気持ちはないが、大人になってもしばらくは妹を妬んでいた。

そんな訳だったのに私は、姉のように勉強に見切りを付けることなくがんばった。中学くらいまではそれでもなんとかなった。そして父方の伯母と父も行っていた、伝統のある高校へ入学した。隣町の八百津町出身の外交官で、リトアニア大使のときに「いのちのビザ」を発給して、6千人のユダヤ人を救った杉原千畝の母校でもある。合格したときはこれで自分も認められると思い、すごくうれしかったことを覚えている。

女性であることに絶望して

中学3年生のころだっただろうか。美術愛好家だった私は、あるとき、好きな絵画のほとんどは男性が描いたものであることに気がついた。そうして世の中を見回してみれば、この世の中のほとんどのものは男性が作っているではないか。そのことに気がついて深い絶望感に陥ったのだ。そして、女に生まれてしまった自分が嫌で、中学生になったころからニキビが酷くなりすごく悩んでいたのに、わざとニキビを潰したりしていた。
私は、ノーマルという言い方は良くないかもしれないが、男性を好きになるノーマルな女性なのだが、自分の女性性をごく自然に表現したり、受け入れたりできるようになるのに随分時間がかかってしまったように思う。恋愛をしたり、結婚したり、子どもを産み育てたり、多くの人がごく当たり前に行っていることが30を過ぎてもできなかった。

ようやく39歳で結婚はしたけれども、子どもを産み育てることはできなかった。子どもがほしいと思ったことはないのだけれども、子どもがいる人生を経験できなかったことは少し残念な気がする。

また、中学生のころ、広島の原爆の被害を描いた漫画『はだしのゲン』を読んで大きなショックを受け、核戦争恐怖症になったのを覚えている。世界には核兵器が溢れていて、人類は滅亡するかもしれないという恐怖を持ってしまったのだ。

考えてみれば、私が生まれたのは第二次世界大戦が終結してからたった20年だったのだ。
子どもの頃、お祭りのときには白い着物を羽織った傷痍軍人の姿をした物乞いが居たのを覚えている。
戦後10年ですでに「もはや戦後ではない」と宣言されたわけだけれども、高度成長期に日本人は戦争によって受けた大きな傷をなかったことのようにして、繁栄を手にしてきたのかもしれないと思う。朝鮮戦争の特需で戦後復興を成し遂げたということも、戦争の傷を覆い隠すことに一役買ったのかもしれないと思う。

広島と長崎に原爆が投下され、50万人以上もの人が殺されたにも関わらず、核の平和利用と称して54基もの原子力発電所が日本全国に建設され、東日本大震災の津波によって福島でメルトダウンし、再び日本は放射能に汚染されることになったことは、非常に象徴的な出来事だと思う。戦争でさんざん破壊された国土を、今度は自らの手で破壊し汚染することで、この豊かな国を作ったのだ。私たちはこの豊かな国で幸福に生きられているだろうか・・・自分の人生から視野を広げて追々考えていきたいテーマだ。

悪夢

話しが逸れてしまったが、自分が実は勉強ができないということ、この世は男性社会であるのに女に生まれてしまったこと、核戦争への恐怖など、沸々と湧き上がって来る疑問や葛藤やいろいろなものを覆い隠して、私は自分もこの社会で何かを為せるに違いないという、根拠のない自信を胸に、がんばる方向を見失いながらもがんばった。

そして、どんどん、どんどん、自分が虚しくなり、気がついたら世界と触れ合うことができないという“離人感”に強く苛まれるようになってしまったのだった。常にもうひとりの冷徹な自分が「このままではいけない。なんとかしなければならない」と責め苛むようにもなっていった。それは戦後の日本社会のあり方とリンクしていたのかもしれないと、今ふと思う。

わりと最近まで見ていたある悪夢のことを思い出す。高校の校舎の中を私は歩き回っている。教室の中では授業が行われているのに私は中に入ることができない。教室を横目に見ながら通り過ぎて階段を下りて、下の階でも同じく授業が行われている教室の前を通り過ぎ、また階段を下って・・・それを永遠に繰り返している夢なのだ。この夢はあのころの私の状況を如実に表していると思う。
私は学生時代のことを何も覚えていないと書いたが、授業に身体は確かに参加していたのだけれども、精神はそこには存在していなかったのだろう。そのことを教室に入れないという夢は表現していたのだと思う。

あのころの私はほんとうに視野が狭く、小さな、小さな世界に閉じこもってしまっていたと思う。
自分を救ってくれるような本や、人や、何かと出会えていたならば、心を病むこともなかったかもしれないなどと今更ながらに思うけれども、そういうことは一切なかった。ひたすら自分の中に引きこもって行き、袋小路に迷い込んで行ってしまった。
私が自分を精神的に支えてくれる本や、人や、様々な出来事に出会うことができたのも、ようやく30歳を過ぎてからなのだ。

この章の最初に書いたように、それでも、なんとか勉強をして、希望の大学には行けなかったけれども、大学に入り、そして、19歳のときに自分の心の病に気がつき、精神科に通って安定剤を飲みながらも大学はなんとか卒業した。

就職活動はほとんどできず、一社だけ受けてみたけれども受からなかった。卒業後はアルバイトに行ったりしていたけれども、社会に出られず家に引きこもっている状態が2年あまり続き、ある出来事をきっかけに精神状態はどんどん悪化して、ついに精神病院へ入院することになってしまったのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?