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里山暮らしはやめられない         薪焚く日々 前篇

思い出の薪ストーブ

我が家では冬は薪ストーブと薪風呂を毎日焚いて暮らしている。
私が薪暮らしを始めたのは、飯舘村に移住した2004年からだ。飯舘の家は薪風呂ではなくて、薪ストーブだけだった。現在我が家で使っている薪ストーブは飯舘村で使っていたもので、亡き夫が2000年に飯舘村に移住したときに買ったものだから、もう22年になる。

実は、このストーブは一度錆びてしまい、こちらに来るときに知人が働いていた薪ストーブ販売会社にお願いして、飯舘村から運び出し、オーバーホールして再生してもらったものだ。煙突はすべて新しいものに取り換えた。
新しいストーブを買うのと同じくらいお金がかかってしまったけれども、これだけはどうしても置いてくることができなかったのだ。

東日本大震災直後、飯舘の我が家は2日間停電していたのだけれども、薪ストーブのおかげで暖かく過ごすことができた。
実は地震の揺れでストーブ本体が10㎝ほど横に移動して、煙突も斜めになってしまっていたのだが、火事場の馬鹿力は本当にあるようで、どちらかといえば女性の中でも腕力が弱い方の私が、たったひとりでストーブを押して動かし、元の位置に戻してしまったのだ!おかげで、震災当日の夜も焚くことができて、家が古くて余震が不安な友人家族6名が我が家に泊まりに来て、いっしょに暖かく過ごすことができた。
2007年3月に亡き夫が最期の9日間を飯舘の我が家で過ごして旅立っていったときも、この薪ストーブを焚いていた。彼の自慢のストーブだった。

水道管が凍結破裂して

ところで、ストーブが錆びてしまったのは、次のような出来事が起こったからだった。
震災から2年目の冬に二階のトイレの水道管が凍結、破裂し、おそらく2月の末ごろから氷が溶けて破裂したところから水が流れ続けてしまったのだ。水はトイレ横の和室に流れ込み、畳をぐっしょり濡らした後、天井の断熱材に染み込み、石膏ボードごと天井が抜けてしまった。水は階段も流れ落ち、廊下を伝って玄関まで達し、外まで流れ出ていた。
飯舘の家は変わった造りで、家の真ん中後ろに階段があり、二手に分かれていて、一方には書斎と寝室、もう一方には客間の和室とトイレがあり、階段横は吹き抜けになっており、そこに薪ストーブが設置されていた。階段を伝った水は薪ストーブに降り注ぎ、錆びてしまったのだ。

私は避難先の家で暮らしており、雪かきもできないから冬場は帰ることはできず、3月になってから帰ったのだが、家の前に立った時、玄関から水が流れ出ているのを見つけ、何?!と思いながら玄関を開け、居間に入った途端に絶句した。まるで爆弾が落ちた後のような有様!すぐには何が起きたのか把握できなかった。あのときの衝撃を今も忘れることができない。
家の中の片付けはひとりではとてもできなかったので、業者に頼んで全部やってもらった。水に浸かったものはすぐにカビだらけになってしまい、すべて捨てた。自分でも階段下の収納に入っていてカビだらけになってしまったものを運び出したりしたのだが、ぎっくり腰になりかかってしまった。
けれども、その夜、避難先の家で薪風呂を焚いて入ることで悪化させることなく治すことができた。その体験により、私の薪風呂への愛着は深まったのだ。

心の支え

飯舘の我が家のシンボル的な存在だった薪ストーブが錆びて、どこか淋しげな姿になってしまったのを見て、私はなんともやり切れない気持ちになってしまった。こちらに引っ越すことが決まったとき、これだけは何としても持って行きたいと思った。オーバーホールしてもらっても20年以上たっているから不具合もある。新しいものを買った方が良かったのかもしれないと思ったりもする。でも、やっぱり、これは他には絶対に存在しない特別なストーブなのだから、多少の不具合があっても使い続けようと思い直すのだ。長く使い続けているうちに物にも魂が宿るのだと思う。

こちらに来て3年目の2019年に飯舘の我が家は解体した。そのことについてはまた改めて詳しく書きたいと思っているけれども、この薪ストーブが唯一の飯舘の思い出の品となった。そして、飯地の我が家でも、家のど真ん中に重厚な姿で鎮座して、シンボル的な存在となっている。

ふと、第二次世界大戦後のポーランドの首都ワルシャワの旧市街復興のことに思いが至る。
1944年に起こったナチスドイツに対する反乱「ワルシャワ蜂起」。ワルシャワの街の80%以上が瓦礫の山となり、20万人もの犠牲者を出して惨敗したのだが、最後の砦となっていた旧市街一帯は、最も徹底的に破壊尽くされた。戦後、そのすべての建物が「レンガのひび割れの一つに至るまで」忠実に復元されたのだ。
そのことを以前、テレビの特集番組か何かで見た時には、その執念に驚くばかりだったけれども、あまりにも深い傷を負ってしまったワルシャワ市民たちは、途方もない時間と労力をかけて街を再建することで、自身の心の再建も少しずつ進めて行ったのではないだろうか。

比べるのはおこがましいけれども、私も、錆びて寂しげに飯舘の我が家に残されていた薪ストーブを運び出し、再生させ、この場所で再び使うことで、暮らしを立て直す支えとしてきたのではないかと、あらためて思った。

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