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肩書きなしの指導者へ

前章


・ついにインドに帰国

第一次世界大戦が勃発した頃に、インドに帰国。本当は里帰りもしたかったんだが、南アフリカが納得できる状況に落ち着くまで帰らないという覚悟もしていた為、20年ぶりの帰国だった。

インドに帰国したガンディーとカストゥールバーイ(1915年 / 46歳)


ガンディーの本名はモーハンダース・カラムチャンド・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi)というもので、有名なマハトマという呼称はサンスクリット語の偉大なる魂というものだ。この後の活動から、マハトマ・ガンディーと呼ばれるようになったらしい。

それはさておき、ガンディーは南アフリカでの活動とその結実を経て、インドでも独立ができると確信を持っていた。
なぜなら、植民地支配というのは不当なもので、お互いにとって究極的なところでメリットはない=『サティヤーグラハ』ではないのだから、覆されるのが自然であるという信念があった。

ガンディーは南アフリカでのフェニックス牧場と似たような農場を作る。
カーストや宗教に囚われない共同体で、これまでカーストや宗教に囚われて分断されていたインド人の一体感化を押し進めていたのだろう。

ガンディーが暮らしていた家

この頃から、ガンディーは教科書などにも載っている、インドの民族衣装を身に纏い始めるようになる。生活レベルも貧民レベルに落とし、列車の三等席に乗って広大なインド各地を見て回る。
この時点でガンディー南アフリカでの功績も伝わっていて、一目置かれる存在となって居たんだが、すぐに行動には移らず、まずは情報収集、インプットから始めた。

資金は如何していたかというと、生活レベルは貧民並だから生活費は微々たるものだ、交通費・活動費やらは寄付や応援資金で賄っていたようだ。

そうして、各地で不正と思われる法律を覆させる為に、非暴力・不服従・非協力を実行し、成し遂げていく。
その過程で、逮捕されたり財産を没収されたりして、刑務所にも入る。刑務所内では読書をしていたらしい。俺の伴侶からの知識だが、ロシアの文豪で平和主義者のトルストイとの親交もあったらしく、大きな影響を受けたことだろう。途中から、「刑務所が家です」みたいな感じになっていた😅

当然、民衆が非暴力を守らず、暴動を起こしたりすることもある。すると、ガンディーは断食をして、人々の良心に訴えかけてそれをやめさせる。


・非協力活動開始

イギリスが、遠く離れた地である何千万のインド人を統治する為には、インド人の協力が必要不可欠だった。そこで、ここでもサティヤーグラハ(非暴力・不服従・非協力)を展開していく。
具体的には…
・イギリス製品を買わない
・警察・役所・軍隊を辞任して貰う
・大学・高校も自主退学する
・弁護士は政府関係の仕事を受けない
・交通公共機関をボイコットして、自力で通う
・農民は、不当な納税に関しては支払いを拒否する。
・手製のインド製の布を着る。ガンディーというと糸車とセットの画像が多く見受けられるが、工業化された大量製品のイギリスの布ではなく、敢えて自家製の糸や布を身に纏うことを抵抗運動のシンボルにした。

アーメダバードの自宅で糸を紡ぐガンディー(1925年 / 56歳)

更に、イギリスの布製品を燃やした。
…というのも、この当時、インドの綿農家の生産品ははすべてイギリスに持ち去られ、イギリスで製品化されてから、インドに高値で売りつけられていた。インドとしては綿花への正当な報酬も貰えず、既製品を高く売りつけられるわけで、じり貧になっていく一方だ。
ガンディーはその状況に『NO!』を突き付けた。

ガンディーのこの信念に胸を打たれ、彼と同じ貧相な腰布一枚の衣装が一世を風靡したりもした。謎のファッションリーダー化(笑)



・ガンディーが見据えている認知の世界

裁判を受ける際、ガンディーは裁判官に対して、「この仕事、辞めた方が良いですよ」って、勧めたり…したらしい。
まさかの、被告人から転職を勧められるという面白劇!
詳細を説明すると「貴方が、私がやっている活動が本当にやってはいけないことだと思うんだったら、最も重い罪に課して欲しいし、貴方がそう思わないのだったら、今すぐ裁判官を辞めた方が良いですよ」と告げた結果、裁判官が…困る(笑)

ガンディーにとっては、広い広い視野の世界で、みんなが幸せなことこそが理想的な社会だったんだろう。
その実現の為には、自分や自分への賛同者が血塗れになり投獄されても、必ず意味があると信じて、へっちゃらだった。
けれど、そんなピュアな姿勢を真っ直ぐに突き付けられる側としては、生活やらしがらみやらの狭い世界での困惑やら苦悩があるわけで、それでもこの時勢と舞台では、ガンディーが優勢だった。


・ジャワハルラール・ネルーとの出会い

後々インドが独立した際、初代首相を務めるようになる人物である。

この時点では、最も尊敬されている法律家の一人だ。政治コミュニティの議員でもあり、これからインドを引っぱっていく若手の指導者の一人といった感じだった。
彼はエリートで、父親も弁護士で、子供の頃からイギリス風の生活をしているんだが、成長するに従い、イギリスの統治というものに苛立ちを覚え始める。これは搾取のやり過ぎなのではないかと。
だがしかし、ネルーから見ると、ガンディーのやり方も悠長すぎるように思えた。絶対に闘った方が早いだろうと思っていた。

ネルーはついにガンディーに会いに行って議論する。そして、20分後ぐらいにガンディー派になった(笑)サティヤーグラハの概念を本人から聞いてしまったら、感化されてしまった。
敵対や反対していたのに、ガンディーに話を聞いて、一気にガンディーに傾倒する人は彼の他にも大勢いたらしい。余程、説得力とオーラがあったのだろう。

その後ネルーは、イギリス式の富裕な生活スタイルを捨て去り、ガンディーと同じ質素な暮らしを送るようになる。そして、それを目にした父親がびびるわけだ。自分の息子が変な宗教家に騙されてあらぬ方向に行っている!と。
ネルーパパもガンディーに会いに行く。そして、「お金あげるから、ネルーに関わるのを止めて欲しい」と告げる。するとガンディーは「いや、息子さんだけでなく、お父さんもその家族も、全員巻き込みます。みんなが欲しいんです」って穏やかに告げる。そして、その通り、巻き込まれた(笑)

ガンディーはサティヤーグラハ(対立を生まなければ、必ず良心を掘り起こせる)という信念を、あたかも物理学の法則レベルで信じていて、全く私心がないので、会ったらそれが伝わって、凄まじい説得力を生むのだろう。
なんなら、インド人の為にも動いていない。みんなでサティヤーグラハを実践する為に動いている。だから、イギリス人ですら感化されてしまう


・ガンディー、そして伝説へ…『塩の行進』

政治コミュニティーからも信頼を置かれるようになり、イギリスへの次の一手はガンディーに任せようということとなる。
それに応えようとガンディーもめちゃくちゃ考える。
ガンディーはインド独立が叶うまで絶対に活動を止めないと決意している。
暴力を使わず、暴動も起こさせず、具体的にどういうアクションをどの地域で誰にどのように行なわせれば成し遂げられるかということを、凄く戦略的に考え始める。これが、ガンディー61歳時点。

そしてやったことは、行進して砂浜にある塩を拾う…

78人から行進を始め、真夏の炎天下の中、24日かけて360kmを歩き、塩を摘まみ上げた。この行動の意味を説明すると、当時、生活必需品である塩の製造と販売が、インド人には禁止され、イギリスからしか買うことができないから、イギリスの不当な支配の象徴ともなっていた。だから、塩を拾うことは、法律違反ではあるんだが、その計画をみんなに告げたところ、「…は?」てなる。ネルー含め、みんなぽかーんってなった(笑) ガンディー派から離れた人も出た。

それでもこれは、ガンディーの中で考えつくし、計算し尽くされた活動だった。「イギリスの不当な支配の象徴である塩に対して、インド独立の運動の象徴であるサティヤーグラハで活動するという、ある種のパフォーマンスに特化したメディアショー」

俺が学校で習ったときに受けた印象は、「普通にデモ行進して、賛同した民衆が膨れ上がって、イギリス側がびっくりしたんだろう」ぐらいのもんだったんだが、全然理解できてなかった。


・塩の行進の戦略


まず、参加者の78人だが、きっちり非暴力・非服従・非協力が実行できる人を厳選している。暴力を受けて殺されても、反撃しないと信じることができる人だけを選んだ。実際、何人か殺されている
行進の中で、最終的に数千人にまで参加者は膨れ上がるわけだが、それも織り込み済みだった。

血塗れになろうとも屈することなく海岸に辿り着いたガンディーが、砂浜の中から塩ひとつまみを拾い上げて掲げる姿が全世界に放映されることとなるが、それも当然計算されていた。ジャーナリズムをどう利用するかというメディア戦略。世界中からイギリスに掛かる圧力というものを狙っていた。
そして、インド国内でも、サティヤーグラハが浸透していく。

行進ルートの住民の人口、宗教分布、貧民の経済状況をデータ化し、地域ごとにどういう行動を取って貰うことが最もサティアーグラハを押し進めることに繋がるかということも、予め設定していた。宿泊施設や食事の手配も抜かりない。逮捕されたときにどういう罪で訴追されるかも、予め考え尽くしていた。

行進中、周囲の人々は逮捕されても行ったんだが、意外とガンディー自身は逮捕されなかった。ガンディーが逮捕されたら、その活動を誰が代わりに続けるかも決めてはいた。
そして、ついに逮捕される。警官が30人来て取り囲んだ。だが、ガンディーは全く取り乱すことがなく、その態度に警官側が感銘を受けてしまう。
「荷物をまとめてください」と言われると、手提げ袋一つ掲げて「これしかないです」と告げて、また感動を呼ぶ。それは、刑務所内の刑務官といった人たちも同様で、ガンディーに感化されていった。
イギリスの高官が話に来たときも、「不正には服従しませんよ。この不正な行為は、私たちだけではなく、あなたたちも破滅させているんですよ」と、飾り気ない言葉で穏やかに告げる。


・独立未満…

こうしてじわじわと影響を強め、事態が収束しないことに痺れを切らしたイギリス側からの提案で、インドを統治している総督との会談が実現する。
イギリス側からの提案は、以下の通り。
・この活動での逮捕者の刑事訴追を止めます。
・暴行以外の政治犯は釈放します。
・酒と布のボイコットに関してはやってもいいです。
・没収した土地は返還します。
・塩は採っていいです。
ガンディーは、一度これで良しとするが、独立を勝ち取るまで活動をやめるつもりはなかったから、塩の行進の矛を収めたという感じだったのだろう。

この後、ガンディーはイギリス国王に呼ばれ、ロンドンに向かう。

ガンディーの貧民ファッションに、イギリス国王に対する侮辱だと、チャーチル首相はキレた(笑)
だが、ガンディーはイギリス人にも人気が出ていて、味方も大勢いたようだし、「ガンディーならしょうがない」と大らかに受け入れられたとか。

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