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第一章 そもそも源氏と平家って、何?

・そもそも源氏と平家って、何?


平安京へと遷都した桓武天皇の時代、溢れてきた皇族をリストラ…もとい、臣籍降下する為に、新しい姓を与えて家臣とするということが行われるようになる。
これは天皇家の存続を図る為に、産めよ殖やせよを敢行したが、増えすぎて国庫を食うので、苦肉の策。政治闘争を避ける為でもある。
このときに臣籍降下する為に天皇から下賜された姓が、『源氏』と『平氏』。
これを結構な頻度で与えてるから、源と平が溢れることになった。

源というのが歴代天皇の直系男子に対して下賜される名字であるのに対して、平は孫以降に下賜されるのが通例だから、源の方が格が上。
だが、平清盛は天皇との縁を深めたことにより、平氏ではなく格上の平家と名乗るようになる。
尚、源氏は「天皇家と『源』を同じくする」、「平家は、天皇家と『平坦』な場所にある」という由来だと、俺の伴侶が教えてくれた。


源氏平氏といっても、どの皇子の子孫かによっていろんな流派に分かれているんだが、高望流の平氏は上総(現在の千葉県)を管轄する上総介に任命され、そこの豪族などと結婚して土着する。
中央に残っていても、これ以上偉くなれる見込みはないが、地方に下ると、天皇の子孫ということで「めっちゃすげぇ人来た!」って感じで尊ばれ、第一人者として君臨できる。
そんな感じで、関東に広まった高望流の平氏たちが、坂東平氏と名乗っていく。鎌倉殿の13人に出てくる人物の6割ほどは、この坂東平氏の出身なんだ。なぜ名字が変わっているかというと、地域と深く結びついたことにより改名したから。
ここでのポイントは、武士の源流は、案外、皇族貴族にもあるということ。
貴族だからといって、庭で「まろは〜」とか言って和歌詠んでるだけかというと、そうではなく、武的な側面もあった。


・それじゃあ武士って、何?


武士の出方というのには諸説あるんだが、一説を紹介すると、天皇は中国の律令制を真似て日本の土地全てを治めようとするが、中国ほど役人や軍人を育てる機能が備わってない為、失敗してしまう。
なんせ中国が律令制を打ち立てることができたのは、500年もの長きにわたる春秋戦国時代を経て試行錯誤を繰り返していたお陰。部族社会を脱したばかりの日本がそれを真似るのは到底無理だった。
実際、日本国土がきちんと管理できるようになるのは、戦国時代を経た後に誕生した徳川幕府の時代まで待たねばならなかった。

その結果、無法地帯も生じて、武装して自衛する実力者が誕生する。それが地方武士。それを、中央から下ってきた源氏平氏が束ねて、領地を有する有力武士となっていった。

一応、軍事を担当する貴族も決まっていて、有名どころだと坂之上(さかのうえ)小野(おの)などがいるんだが、遠征後は都に戻ってきた為、武士として土地と根付くことはなかった。


実際の反乱に対応して土着できたのは、高望流平氏や河内源氏だった。
例えば、関東の平将門の乱、瀬戸内海の藤原純友の乱。
中国の天命思想(悪い為政者は倒して、取って代わっても良いんだ)に当てられて天皇家滅亡を狙った過激実力者。
これの鎮圧に成功できた為、高望流平氏や河内源氏は、朝廷からのお墨付きを得る。


この、朝廷からのお墨付きが、ずっと影響し続ける。これは、国の軍人教育機関が整っていなかったから、お家芸として一子相伝で武芸の技を受け継いでいくのが合理的だった為。
これが、教育機関が充実した中国の律令制を取り入れようとした過ちで、教育機関が未熟な日本では、有力な家の家庭教育に、国家運営が託されることとなる。
源頼朝が活躍できる一因は、河内源氏の子孫だから。
所謂、オフィシャル認定武士!

こうして、オフィシャル武士は、軍事担当として存続していくことを求められる。

武士が名乗りを上げるという文化も「俺は朝廷公認の軍事担当部門、河内源氏の子孫だぜ!」って、国家と先祖の威信を借りてるわけだ。

その一方、現実の戦いに対応していく形で、地方武士というものは朝廷からの指示を無視したりするようにもなっていく。朝廷の権威と、独立との狭間で揺れ動く。なぜなら、武士は自らの実力で獲得した領土を持っているうえに、それを守る軍事力も備えているから。

この辺りを大雑把に説明すると、天皇家の血筋が薄まって行ったり、朝廷からの役職が低下すると、どうしても権威=みんなを納得させられる力が弱まる。
河内源氏は比較的朝廷寄りで活動していた為、土地はあまり持っていないが、血筋も役職も兼ね備えているということで、権威を保ち、武士を束ねるリーダーとして活躍できた。
一方で、坂東平氏は、朝廷からは遠く離れてしまっているから権威は弱まっているが、関東に土地を持っていて実力はある。


・なぜ、鎌倉殿の13人は頼朝を担がなければならなかったのか


それは、河内源氏の末裔である頼朝が、最も朝廷に近いから。
勿論、頼朝のカリスマもあったが、それぞれの実力ある武家の仁義なき闘いに陥るよりは、朝廷の権威を重んじる形で、兵士を一人すらも持っていないが貴種である頼朝を担ぐのが、最も犠牲が少なくて済む方法だとして選ばれた。

とはいえ、頼朝だけがオフィシャル武士というわけでもなく、木曽の義仲、甲斐武田源氏といったライバルもいたわけだが、それは冴えた政治力という実力で蹴落とした。
そして、最大のライバルとなるのが、当時最大のオフィシャル武士・平家だったというわけだ。


オフィシャル武士同士の戦いと、地方武士の戦いでは、J1、J2的にリーグが違うんだ。同じ土俵に登ることもない。それが、平安末期から鎌倉に至る時代の潮流。


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