「意識の哲学」を巡って~YAMI大学深呼吸学部#2 20200815 橘川さん授業メモ+inspiration

構造化しない断片として。

■橘川さんの授業断片
(※私のメモとして。拠って文責は私にある。また、必ずしも、橘川さんがしゃべった内容・文体と一致していないことは予めお断りしておく。太字も、私の印象に拠る。
(※また、このように、この授業断片の項で、(※)は私の後からの私見である
(※2020/8/25に橘川さんの授業の以下の部分を修正しました
  作家の全体像→作家の本質・・
  塙谷雄高→埴谷雄高

ー20代のときに考えていたことを話す:「意識の哲学」
 みなは、同じ作家の複数の本を読んでいたが、僕はその作家の本質、その人の姿が知りたくて、一冊の本を繰り返し何度も何度も読んでいた。そうすると、うっすら、その作家が人として浮かび上がってくる

デカルト「我思う。故に、我あり」から近代、夜明けが始まった
 「我思う」の「我」は意識。デカルトの「意識」の自覚は、想像につながり、自我、個人意識を発展させることに繋がった。

ーこれに異を唱えたのがマルクス
 「意識」は「存在」が設定する。「我あり。故に、我思う」

埴谷雄高(はにや ゆたか)
 マックス・シュティルナーに影響を受けた。
『死霊』分からないが、繰り返し読んでいた。文体・フレーズとして。
 「アナキストはテロリストとは違う。」

山崎正一
 直接、仕事を一緒にしたことはないが、次にあげる、足立原さんに紹介していただいて、一度お会いしたことがある。
 「近代は間違えやがった。それも真面目に間違えやがった」

足立原貫(※)
 農薬散布に反対し、野山や野原の下草を刈る、「草刈り十字軍」を創始した人。当初は人が全く集まらず、大学生のスポーツ部の合宿の宿泊環境を提供するかわりに下草を刈る、という形で富山で始めた。
また、富山の山奥では「山崎賞」の表彰者を呼び、講演・授業をする、という仕掛けも併せて創っている。山崎賞の受賞は、第一回の村上陽一郎氏をはじめ、日本の哲学関係者の錚々たる名前が並んでいる。
 制度は事前設計ではなく、使いながら作られていく
(※久しぶりに草刈り十字軍という言葉を聞いた。昔映像を観たことがある。その創始者が足立原さんということは少なくとも記憶に全く残っていなかった)
(授業中は亘となっていたが、8/17に橘川さんが間違っていたと修正されたので合わせて修正)

ー金塚貞文
 人間の生理にこだわった哲学を90年代浅田彰と並んで、追及した人。
 ジャック・アタリの著書の翻訳家として知られている
 オナニズムの哲学。
 「自分が持った欲望、幻想を商品化してくれたものを買う」
 「(人間は)自分が動物であったことを記憶喪失していく

ー(改めて)「意識」と「存在」
 近代は「意識」と「存在」が葛藤して、発展してきた。
 現代は「意識」が肥大化して、「存在」を見失っている。

ー振り子の絵登場
 橘川さんの世界観。為本さんとの議論で閃いた。ユリイカ(EUREKA!)
 人間の体内を流れる血液も海。
 社会は法律とお金(貨幣、価値)。
 (これからの社会像を表す)「情報化社会」には、自分のことしか興味のないやつは来てもらっても困る。人を殺してはダメだ、という価値観は情報化社会にも持ち込まれる。

ー公と私
 (公と私が分かれるのではなく、公と私の間を)
 高速で振り子のように行き来する
 『参加型社会宣言社会』で書いた社会を内包する新人類とは、意識や存在の変容ではなく、方法論の変容である。

■津田の所感
・デカルト、マルクス、塙谷雄高、山崎正一(山崎正和氏とは別人)、足立原貫、金塚貞文が一緒に並ぶ授業は、たぶん、これまでになかった。
 特に、日本近代については、歴史そのものもほとんど授業で触れられず、まして、思想・哲学については、ほとんどどの授業でも触れられないのではないか。

・「意識」と「存在」。特に、近代はこの葛藤で発展してきた、という声明には改めて痺れる。

・「意識」と「存在」は面白いし、難しい。
 まず、改めて、現代において、正確に共通理解のための定義をすることが難しい。
 これまでの文脈だと「意識」には、「自分を意識化すること(存在を超えたもの)」、「思考」、「(思考が優位という前提に立った)合理性」などが含まれているように思う。
 一方、「存在」には、「源存在」から始まり、(思考や意識の含まれない)「知覚」「感覚」も、今回の授業の文脈では「存在」側に含まれているように思われる。
 近代は「思考による合理性」が優位とされてきたが、これが間違いだった、という山崎正一氏の言には、惹かれる。

でも、どんなに難しくても、これからの時代のcommon senseを、少しずつでも、具体化し、拡げていくという作業は楽しい。
対立的な議論、排他的な議論ではなく、包含して拡げていく、というイメージに希望を感じる。


・意識と存在は、現代においても定義を明確にし、共通理解として捉えるのが難しい概念であることを、現代の脳神経学の権威、アントニオ・ダマシオの1999年の著書で2018年の文庫版『意識と自己(原題:The Feeling of What Happens: Body and Emotion in the Making of Consciousness)』の第2章から引用しておく。
ちなみに、未読だが、ダマシオのこの本の前著は『デカルトの誤り』である。
(ダマシオの「情動」「感情」も定義が難しい。恐らく、いわゆる普通の人がこの言葉、日本語から想像することとこの本の中での定義は異なる。乱暴に書くと、「情動」は、人間や生物における「心の評価プロセス」とそれに付随する身体的変化の原初的なレベルの動き、で、「感情」は「情動」を「意識」などにより脳内に知覚されたパターン、という感じ。詳しくは上記の本文、および、訳者の田中三彦氏の訳者あとがきを参照されたい。)

「情動を引き起こす基本的な機構は、最終的に意識を利用するにしても、意識を必要としていない。つまり、あなたは情動の表出をもたらす一連のプロセスを、その中間段階は言うに及ばず、情動の誘発因さえ意識せずに、動かし始めることが出来る。実際には、「いま・ここ」という限られた時間における感情の発生さえ、有機体は認識していないかもしれない。」
「なるほど、進化の現段階においては、そしてまたわれわれ成長した人間のこの瞬間においては、情動は意識の舞台で起きるから、われわれは常に情動を感じることができるし、情動を感じていることを認識している。なぜなら、われわれの心と行動の織物は、情動のあとに感情が起き、感情が認識されるとまた新しい情動が生まれるという、情動の連続的なサイクルの周辺で編まれているからだ。そのサイクルは、われわれの特定の思考と特定の行動を強め、明確にする多声音楽(ポリフォニー)である。」
「おそらく感情は存在と認識を分ける門口にあり、それゆえ意識との基本的なつながりをもっている」 


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