「時間を掛ける」ということ

どうも、エスネコです。つかみ所のないような気がする文章ですので、暇つぶしにでもどうぞ。


今日は土曜日だけど、部活動的なもので学校に用事があった。
と錯覚していた。招集時間が16:00~17:00だった。
学校についてか気づき、時間を無駄にするのも気が引けから運動がてらサイクリングをすることにした。
自分の住んでいる町の中だが、やはり用事のない場所にわざわざ行くことがないため、新鮮味が味わえる。20分ほど走り続けふと湧いて出た考え。
ものを作ったり、技を磨いたりと、情緒的根拠から行動を形にすることに時間を掛けることの「時間を掛ける」行為は、自身が感受した出来事に対して純粋な想いを体感できるエンターテイメントではないだろうか。
行動のやり始めでは、期待、苦手意識、他人の意見として例が挙げられる事前に形成された固定観念が、その行動に対する純粋な想いを濁してしまう。
そこで、時間を掛ける。始めに考えていた印象は、時間が経つにつれ変化し薄れていく。まさしくこれは寂の純化ではないだろうか。
時の流れの中で余白を埋めようとする人間の本能が、飽きとともに自分の中で新しい価値観を生み出してくれる。
好きなものを過密的に感じ続けて自分の心に生ずる喜怒哀楽を楽しむ現代の娯楽から変わりゆく先に、時間を掛けて純化された価値観が生まれることを楽しむエンターテイメントが在る。

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