命の常なるもの

上手に思い出すことは非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代における最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決した仏説というようなものではあるまい。それはいついかなる時代でも、人間のおかれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも、無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである。(小林秀雄「無常といふ事」)

今までやってきたことはいつか全て忘れられる。これは正しく諸行無常の言葉に尽きる。現代に蔓延る虚しさというものは、虚しいものなのだろうか。いや、虚しさは、決して心を虚しくすることではない。虚しさを感じている。虚しい心というのは、何も感じていないことだ。つまり、心を亡くすで忙しいとも、忘れるとも言える。

ならば、現代の大半の人は心を虚しくしているわけではないだろう。子供の頃から他者と関われる環境で学び遊び、親に育てられ仕事に就き、役を終えて過去の儚い思い出を噛みしめている。ただし、忙しくするあまり生への執着を失った者もいる。

僕らが生きようと思えるのは、青々とした心の情が、そしてそれへの馳せが、諸行無常の生き様を人生へと成してくれるからだろう。

記憶から心が失われれば、それはもう記しと音の集まりに過ぎない。
例え、有象が朽ちようとも、青々とした心で今を感じ、それを朧げながら思い出せれば、無象は思い出となる。

生きることが苦行であり悦楽であるならば、その感情が生きる糧となる。
喜怒哀楽があるのならば、その生き様は人生と成る。

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