栂尾山 高山寺 新緑の石水院
国道162号線の駐車場・バス停から境内に入る道が裏参道である。私もだが利用する人が多い。苔に覆われた石垣と草木の中をつづら折にのぼっていく。
自然の姿そのままに、手を入れすぎない自然が美しい階段を登り切ると、石積みの上に低い白壁が続く この白壁の向こうが石水院である
高山寺は京都市右京区栂尾(とがのお)にある古刹である。創建は奈良時代に遡るともいわれ、その後、神護寺の別院であったのが、建永元年(1206)明恵上人が後鳥羽上皇よりその寺域を賜り、名を高山寺として再興された。栂尾は京都市街北西の山中に位置する。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵上人である。もともとここにあった神護寺の子院が荒廃した跡に神護寺の文覚の弟子であった明恵上人が入り寺としたものである。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
駐車場・バス停から境内に入る道が裏参道である。高山寺を拝観する際によく利用した石段の参道である 苔に覆われた石垣と草木の中をつづら折にのぼっていくとき高山寺へ参っているのだという思いがこみ上げてくる。一木一草をそのままに、手を入れすぎない自然が美しいくもありこころが落ち着くからでも。段を登り切ると、石積みの上に低い白壁が続いている。壁の向こうが石水院であることを知らされてくれる
国宝 石水院 Sekisuiin
高山寺の略紀による 桁行正面3間、背面4間、梁間3間、正面1間通り庇。一重入母屋造(いりもやづくり)、妻入、向拝(ごはい)付、葺。五所堂とも呼ばれる。創建当時、現石水院は東経蔵として金堂の東にあった。安貞2年(1228)の洪水で、東経蔵の谷向いにあったもとの石水院は流失したという。その後、東経蔵が春日・住吉明神をまつり、石水院の名を継いで、中心的堂宇となる。
寛永14年(1637年)の古図では、春日・住吉を祀る内陣と五重棚を持つ顕経蔵・密経蔵とで構成される経蔵兼社殿となっている。明治時代には衰退したが心ある人々が明治22年(1889年)に現在地へ移築され、寝殿風の建物に改変された。名をかえ、役割をかえ、場所をかえて残る、明恵(みょうえ)上人時代の唯一の遺構である。
落板敷の中央に、今は小さな善財童子(ぜんざいどうじ)像が置かれている。華厳経(けごんきょう)にその求法の旅が語られる善財童子を明恵は敬愛し、住房には善財五十五善知識の絵を掛け、善財童子の木像を置いたという。吊り上げの蔀戸(しとみど)、菱格子戸、本蟇股(かえるまた)によって、内外の境界はあいまいにされ、深い軒が生む翳りの先に光があふれる。
茶道には詳しくはないが 抹茶を嗜みつつ庭園と清滝川を隔て向井山を眺めていると時間を忘れされさせてくれるひとときがこのましい
高山寺略記によるは古くから文化財の宝庫といわれ 鎌倉時代を主として国宝 重要文化財は一万点余に及ぶ
著名なものとして
建築 石水院 国宝鎌倉時代
彫刻 薬師如来坐像 奈良時代 乾漆仏明恵上人坐像 白光髪像 神鹿一対 狗児狛犬四対
絵画 仏眼仏母像 国宝鎌倉時代 明恵上人樹上座禅像鎌倉時代 鳥獣人物戯画四巻 国宝鎌倉時代 華厳宗祖師絵伝六巻国宝 鎌倉時代 将軍塚一巻
その他 古経典 古文書 墨跡 器物 版木などの優品数多くの文化財を所蔵するが、建造物を除く指定文化財の大部分は東京および京都の国立博物館に寄託されている。
鳥獣人物戯画四巻 国宝鎌倉時代 明恵上人樹上座禅像鎌倉時代は レプリカではあるが強靭な人間の美しい姿に圧倒される思いでいつも訪れた際には時間を忘れしばし対話かるように鑑賞している
明恵上人御歌
あかあかや あかあかあかや あかあかや
あかあかあかや あかあかや月
この和歌を読みなにを語られたてるかと考えさせられ そり解釈を調べてみた
この歌には明恵上人の次の言葉がある
和歌は よく詠まんなんどするからは無下にまさなりきなりただ何となく詠み散らして心のまことにすぎたるはくるしきもなきなり
とある
あかあかやは「明るく赤い」を意味し たった今昇ってきた赤く明るい月のその尽きることのないいつも眺めて光を無心に詠ったものとされている
月の光が明るいさまを歌ったのびのびとした表現は現在の私たちの心に強くひびく言葉の力がこもっている