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自分の半生をまとめました前編(生まれてから大学まで)

はじめまして!kouri こと 丸田宏一(Maruta Kouichi)です。

かなり恥ずかしいですが、私の半生をまとめてみました。長くなってしまったので2回に分けますが、良かったら最後までお付き合いください。


色白の漫画少年

おとなしく、口数の少ないいい子w 色白でむっちゃ可愛かったらしいです。

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(すみません、イメージですw)


ただ赤ちゃんの時から小児喘息やアトピー性皮膚炎がひどく、特に喘息は生まれたばかりの頃は本当にひどかったらしいです。アトピーもしばらくは薬が手放せませんでした。

外で遊ぶより漫画。読むのはもちろん、見様見真似で自分でも描いたりしてました。絵を描くのが好きで良く褒められてましたね。

おかげで小学校高学年くらいから目が悪くなり、以降メガネやコンタクトレンズのお世話になることになります。

ちなみに当時好きだったのは「少年ジャンプ」

「トイレット博士」「ど根性ガエル」などのギャグ漫画、「アストロ球団」「侍ジャイアンツ」などの野球漫画とかが特に好きで、野球にも興味を持ち、友達も少ないながらも小学生中学年くらいから野球も楽しむようになりました。全然ヘタクソでしたがw

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画像:ebook japan  https://ebookjapan.yahoo.co.jp より

あと「サーキットの狼」ではスーパーカーに夢中になり、写真撮りには行きませんでしたが、車の絵を良く描いてましたね。

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画像:webcg  https://www.webcg.net より

「仮面ライダー」もごっこではなく、描いてましたw もちろんテレビや映画は見てましたが。V3までは良く覚えてます。

とにかく絵は得意だけど運動はからっきしダメ。図工は5だったけど体育はずっと2でした(;´Д`)

てことで、小学生の頃の夢はパイロットだとか野球選手とか大それたものではなく、父親の仕事の看板屋。自然と看板屋の後を継ごうと思ってました。

息子のいない父の仕事仲間にはしきりに羨ましがられてましたね。

小学生の時の痛い思い出


3年生の時今の実家に引っ越します。転校したことがきっかけ(?)で友だちも増え学校が楽しくなったのですが、

小6の時、友達と砂場で遊んでる時顔に大けが。鍬を振ってゴルフの真似事をしてて、友達が振った鍬が右の眉あたり(眉毛とまぶたの間)を直撃!

傷跡は残ったけど大事には至らず…も、両親やすぐ近くに住んでた伯母には心配かけました。

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実はもっと小さい頃にも自宅の縁側からダイブして右眉にケガして傷跡が残ってて、こうして私の紅顔の美少年の顔には子供の頃から箔が付くことになったのだった・・・ww

中高では音楽に熱中!

小学校後半あたりから音楽(クラシック)に凝り始めてたということもあり、中学・高校では吹奏楽に没頭。トロンボーンを担当し、中学では部長、高校では指揮もやり音楽にのめり込んで行きました。

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途中からドラムにも手を出し、楽器は今でも続けてます。音楽は一生続いていく趣味であり、音楽がない人生は考えられませんね。

ちなみに楽器を吹くようになって、喘息が出なくなりました。アトピーは相変わらず手指に残ってましたが。

あとオーディオにも興味を持ち、中学1年の時にセパレートのオーディオセットを買ってもらいます。

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スピーカーは違うけどこんな感じのやつです(^^)チューナーは今でも現役!(画像:Pinterest  https://www.pinterest.jp/pin/322218548340151104/visual-search/より)

当時はレコードにカセットデッキ全盛で、たま~に小遣いをためて買うレコードの他は専らエアチェック。(ラジオの音楽などを録音すること)カセットもノーマルだクロームだメタルだとあれこれこだわり、オーディオにもハマっていきました。

主にNHK-FMを良くチェックしてたのですが、興味はクラシックからジャズ、クロスオーバーなどに広がっていきます。ビートルズやカーペンターズに触れたのもこの頃。

でも日本の歌謡曲にはあまり関心なかったですね。

テレビで歌番組やってれば見てましたが、当時好きなアイドルは特にいなかったし、部屋のポスターはモノクロのピアニストのマウリツィオ・ポリーニだったりアシュケナージ、ジャズのトランペッター、マイルス・デイヴィスでした。

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画像:ARBAN https://www.arban-mag.com/article/38941より

山口百恵や桜田淳子なんか恥ずかしくて壁に貼れないっすよ^^;スレたガキでしたねw

人生一番の○○○!充実の高校生活

進んだ高校は地元の公立の進学校。でもほとんど音楽(吹奏楽)をやりに行ってるようなものでした。

成績は中学までは秀才が中の下の凡才。理科や数学なんてすぐに落ちこぼれ、当然のように文系クラスに。まあその中でも「美術系」になるのですが。

で、毎日のように楽しんでいた吹奏楽部。年に一回吹奏楽コンクールがあります。

1年の時は地区大会で金賞が取れましたが、2年3年と部の中心になっていた時に思ったような結果が出せず悔しい思いをしました。まあ県内でもそれほど上手い高校でもなかったのですが。

でも文化祭やコンサートなど6年間思いっきり音楽を楽しむことができたし、高校3年の時に野球部が甲子園に出たので応援で甲子園に行けたのは良い思い出ですね。

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画像:マイナビニュース https://news.mynavi.jp/article/datespot-13/ より

今ソフトバンク監督の工藤のいる名古屋電機(愛工大名電)高にノーヒットノーランで負けましたけどね(;´Д`)とにかく打てない。ランナーに出ないのであんまり吹けなかった。。

あと今となって失敗したな、何やってんだオレ!と思うのは、吹奏楽部って女子がほとんどなんですよ。男子部員は本当に少ない。

で、結構モテました。吹奏楽部以外でも。^^;

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何度も告白されたけど、当時は本当にウブだったし女の子と付き合うなんて考えられなかったですね。付き合った子はいたけど自然消滅。本当にもったいないw人生で一番のモテキだったんじゃないでしょうかw

なんとなく美大へ。そして浪人。東京へ。


というわけで、将来の進路に関しては深く考えず、なんとなく美大を目指すことにしました。

父親がやっているような看板屋は手伝いをやるうち自分にはとても無理だということも感じてたし、とりあえず美術系の大学へ行ってデザイン関係の仕事に進めればと。

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が、仕事の内容、何のデザインをしたいのかも良くわからず、特に絵の勉強をするなど準備することなく受験を迎え当然のように失敗。もっと早くからちゃんと準備を始めてれば親に余計な負担させることもなかったんでは…と後で後悔することになりました。

結局無理言って一浪させてもらうも、行ったのは地元の普通の予備校。絵は通信教育のみで思ったように上達できず再度受けた受験もまた失敗。。

が、どうしても諦めきれず、というかどこにも引っかからず(受からず)引き下がるのもプライドが許さない。

「本格的に絵の勉強したい!それも東京で」と、決して裕福でない親に頼み込んで、東京美術系の予備校=研究所に通うことにしました。

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実際に行ったのは東京でなく千葉(柏)の研究所でした。東京には大きな、そして有名なところがいっぱいあったのですが、学生の数も多いし、その中で埋もれてしまうのでは…とちょっと東京から離れたこじんまりした研究所にしました。

まあそこを知ったのは、東京芸大に受験に行った時たまたまチラシを受け取ったからなんですが。

初めての一人暮らし。ありがたいことに親の仕送りを受けながら日々勉強し、そしてなんとか多摩美に合格。

他にも受けた国公立には振られましたが、難関(当時20倍超だった)の立体科(プロダクト)にかろうじて引っかかりました。

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が、お金のかかる私立で、しかも一人暮らしは継続。どこにも受からず帰ってくるだろうと思ってた家族は喜ぶどころか「あら~、そう・・・」と微妙な反応だったそうw(後で妹に聞きました)

とにかくここまでわがままを許してくれ、両親には感謝です。
この後大学へ行ってもまだ迷惑をかけてしまうのですが。。。


お前は何をやりたいんだ!

迷惑・・・というのは「留年」です。

3年を2回やりました。

まあ世の中には大学に何年も行ってるような人はいっぱいいますが、実際やっぱり恥ずかしいというか、褒められたもんじゃないですよね。

ただ大学はプロのデザイナーを養成するところでしたから、課題は厳しく、徹夜はしょっちゅう。遊んでたわけじゃないけどふとした気の迷いもあり、課題に取り組めなくなった時期がありました。

今課題は色々やってるけど、で?会社でどうすんの?何やるの?何したいの?と、未だに何をやりたいのかハッキリしてない状態でした。

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ただでさえお尻に火がつかないとヤル気にならない私が、本当に〆切が迫ってるのに課題が進められず当日を迎え、案の定プレゼンに失敗。もう一年余計にやることになってしまいました。

本当に両親には申し訳ない。ごめんなんてもんじゃない。自分が親なら勘当もんですよ。


留年も悪くない~卒業(昭和から平成へ)

留年はしましたが、悪いことばかりではありません。

友達が増える。というのは良く言われますが、あと同じことをさらに深く学べる。まあ課題は毎年変わってはいましたが、基本は同じです。

あと自分を見つめ直す良い期間でもありました。

彼女(今の奥さん)もできましたし。あ、同級生で同じ年に入学した子です。彼女のほうが先に卒業しましたが、留年中はもちろん、現在まで優しく厳しくサポートしてくれてます。本当に感謝してもしきれません。

あと音楽も続きました。浪人時代は何もやってませんでしたが、大学に入って軽音でドラムを始め、大学3年になると当時学内で一番人気のレゲエバンドにホーンセクションの一人として誘われトロンボーンも復活。以降レゲエにハマっていきますw

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この頃からですね。トロンボーンドラム二足のわらじを履くようになったのは。

とにかく、課題はキツかったけど大学生活は楽しかったですね。この頃の仲間はいまだに付き合いありますし。

2度目の大学3年生は無事4年生になれ、自分のやりたい方向も見え日々前向きに暮らし、課題もキッチリこなし卒業制作も終了。無事に卒業できました。

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あ、ちなみに卒業制作の準備を進めていた時、確か泊まり込んでの翌朝だったと思うのですが、昭和64年が終わった瞬間でした。これは良く覚えてます。


後編(就職~フリー、現在へ)に続きます。


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