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思い出の選手たち~#8大杉勝男~

三つ子の魂百まで・・・と言う言葉がある。
私が、スワローズの4番大杉勝男のファンになるのは、ごく自然な流れだった。

まだ幼い頃、スワローズは強かった。
いや、実際は弱くBクラスの常連チームだったのだが、強いとしか思えなかったのだ。
その原因は、父にある。
父は徹底した半官贔屓で、セはスワローズ、パはフライヤーズ(現ファイターズ)のファンだった。
当時は、地上波でしかもジャイアンツ戦しか放送しない。
我が家では当然、父にチャンネル占有権というものがあり、野球中継を見るのだが、スワローズが勝っている場合のみ私に見せる。
負けているときはどうなのかと言うと、スワローズやフライヤーズにどれだけ素晴らしい選手がいるかと言う話を、どうでもいい番組を見ながら話しをするわけだ。

東映フライヤーズ。
駒沢球場に本拠地を置き、親分は土橋正幸、その下に張本勲、白仁天、野次に激高してバックネットにしがみついた、山本八郎。
私にとって張本はジャイアンツの選手。
ほかの選手はスワローズで監督を務めた土橋監督ぐらいしか知らなかった。
その中で、名前と顔が一致するのが、フライヤーズの中心選手で「駒沢の暴れん坊」と呼ばれた大杉勝男だった。

外国人と2塁ベース上で交錯し、その選手が出すパンチを避け、一発でKOしてしまった大杉勝男はなぜか退場宣告を受けなかった。
その理由が、「大杉のパンチが速すぎて、なんで相手が倒れているのかわからなかった」と審判に言わせた選手。
父の話の中の人が、スワローズのユニフォームを着て、テレビの中に現れた。
ファンになった理由はそれだけだった。

1978年、スワローズは日本一になる。
MVPは、4ホーマーそしてシリーズ新記録となる10打点を挙げた大杉。
しかし残念ながら、なんだかレフトのポール際で長い抗議が行われたというものし記憶は残っていない。

私の中にある大杉勝男は、弱小チームの4番打者。
足は遅い、守備も上手くはない。
ファーストにフライが上がると、観客が沸く。
それをなんなく捕ると、野次を飛ばしたスタンドに対しておどけて見せる。
本物のアーチストが放つ、きれいな放物線を描く一発は、負け試合が多かったスワローズファンを慰めてくれるものだった。

そんな一発の中でも印象的なものがある。
それは荒木大輔の初勝利の試合だった。
予告先発で本人以上に固くなっていた野手陣。
大杉の一発が先制点。
荒木は5回を投げ、6回からエース尾花がリリーフ。
2-1で勝利した。
試合後のコメントで、「荒木はこれから100も200も勝っていく投手になるかもしれない。そしてそれをやってのけたら…そういえば自分の初勝利のとき、大杉さんがホームランを打ってくれたなあと思い出してくれればそれでいい」と言って去っていったそうだ。

カープ戦での印象的な一発もあった。
捕手は今解説をしている達川光男氏。
前の打者を歩かせ、大杉勝負。
「ど真ん中投げ、バッターは石ころじゃけん」
達川の言葉に、大杉はひと睨みし、ホームランを打って見せた。
そしてベース一周を終えた大杉は、達川の頭をゴツリとやった。

ある若手投手からデッドボールを受けた大杉さんは病院へ直行。
その投手が降板し、しょげて食堂にいると、
「コラッ!」
と怒鳴り声の主は大杉。
その若手投手が謝ろうとすると、大杉さんは笑顔で、
「全然たいしたことはない、大丈夫だ。それにしてもいい球放るなあ、がんばれよ」
と言って褒めたそうだ。

デッドボールを受ければ投手に向かっていき、味方の投手が危機にあれば誰よりも早くマウンドへ行き守った。
荒っぽいが優しく、いたずら小僧がそのまま野球選手になったような人だった。

2000本安打、1500打点、両リーグ1000本安打・・・数々の記録を打ち立てた大杉の引退の記事を見たのは、夏場の「東スポ」だった。
そのときは新聞の信憑性にもかけるので信じていなかったが、シーズン終盤それは発表される。
武上監督、中西コーチとの不仲。
不整脈や体の不調・・・。
しかし、そんなことは一言も話さず「4番としての重責を果たせなくなった」と大杉は去っていった。

長嶋、王がひまわりで、野村が月見草なら、僕はそれらを飾るかすみ草。
“去りし夢 
神宮の杜に 
かすみ草“
スワローズの4番として残した最後の色紙には、こう書かれていた。

大杉さんの最後のユニフォームはベイスターズ。
病を知っていての就任だったとも言われている。
苦しみを隠しての指導、自軍の選手がデッドボールを受けた時は、相手投手を外野まで追いかけていた。

1992年、大杉は病床にいた。
長い付き合いの八重樫選手が見舞いに行くと、
「もう一度優勝が見たい」
あれだけごつかった体はやせ衰えていたものの、しかし力強く言ったそうだ。

この年、大杉が活躍した78年以来の優勝をスワローズは遂げる。
しかし、その優勝を見ることなく、大杉さんはこの世を去った。

93年、前年日本一を逃したスワローズが雪辱を果たすべく望んだ日本シリーズ。
第7戦、初回に出たのは4番広沢の放った一発。
放物線を描いて、センターへ飛んだ打球を見ながらダイヤモンドを回る背中には背番号8。
だれからも文句の出ない正真正銘の、日本一を決めたホームランとなる。

「あと1本と迫った両リーグ200本塁打、出来ますれば皆様の夢の中で打たしていただければ、これに勝る幸せはありません」
スワローズファンが優勝を見ることなどない…そんな弱い時代しか知らなかったファンからすれば、大杉勝男が引退試合に口にした言葉通り、夢の中の一打に感じた。

2007年11月7日に「東京ヤクルトスワローズ観察日記」に掲載した文章を加筆訂正したものです。

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公式戦は現地観戦、テレビ観戦すべて試合評として挙げる予定です。FC2「スワローズ観察日記R」では13年連続公式戦、ポストシーズンすべて書いてきました。球団への取材などは行わず、あくまでもプレー、作戦などから感じた私的な試合評になります。

プロ野球東京ヤクルトスワローズの試合評を、オリジナルデータやプレーを観察したしたうえで、1年間現地、テレビ観戦を通して個人的なや評論を書き…

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