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思い出の選手たち~#29ユウキ~

大きく足を上げ、振りおろした指先から放たれるスローボール。
山なりの球が大きく孤を描き、打者は腰砕けのようにタイミングを狂わす。
スタンドからはどよめきとともに、失笑がもれる。
しかしマウンドのユウキの表情は真剣そのものだった。
どんな球であれ、魂を籠めて投げた球。
必死のスローボールだった。

恵まれたプロ入りとはいえなかった。
ドラフトで「田中祐貴」の呼ばれたのは、近鉄バファローズの5巡目だった。
同チームに田中宏和投手がいたため、登録名は「ユウキ」とした。
下位指名の高卒投手でありながら、2年目には初登板し初勝利を記録。
この年5勝を挙げている。
近鉄バファローズは2001年リーグ制覇を遂げるも、田中の登板はなかった。
その年のオフ、FA移籍の加藤の人的保障によりオリックスブルーウェイブに移籍。
翌年、古巣バファローズから勝利、完封勝利を挙げるなど7勝を記録したのはユウキの反骨精神、意地のひとつの結実だった。

分配ドラフトでオリックスバファローズに入団したユウキ。
06年には36試合に登板し、一瞬の輝きを見せるが、翌年肩を故障。
08年解雇され、トライアウト後スワローズに育成選手として入団した。

放出されたことで刺激された反抗精神は、スワローズでも生きていた。
一軍実績がありながら育成枠の契約。
プロ入り初めて「田中祐貴」で登録して、背番号は121番となった。
三桁の背番号を背負った田中は、ファームで実績を積み上げ、支配下登録を勝ち取る。
背番号は29となり、登録名をユウキに戻した。
一軍に昇格したユウキは、5/15のタイガース戦。
先発して5回を3安打1失点に抑えたユウキは、3度目の先発で2007年以来の勝ち星を挙げる。

這い上がってきた男は強かった。
相手がどんな強打者であろうと逃げることはしない。
速くはないストレート、スローボール、スライダー、どれといって凄みのある球はない。
ただユウキは逃げず立ち向かって行った。
そして肩の故障からの復帰を気遣うベンチにさえ、ユウキは無言の抗議を何度かした。

交代を告げようとベンチを出るコーチに向かって、背を向けた。
そばへよる荒木コーチから離れようと、マウンドで距離を取り、ボールを渡すのを拒もうとした。
「先発した投手は完投するもの」
とくにスワローズの投手陣が忘れてしまったような気持ちを強く持っている投手だった。

そのユウキの唯一の完投はカープ戦。
9回完封目前で失点しての完投勝利だった。
ユウキはしかし笑みを見せていた。
理想の先発投手としての姿を体現できたからだろう。

ただ輝きは1年で終わる。
2010年春季キャンプで右肩痛が再発したユウキのこの年の登板は、神宮最終戦自らの引退試合だった。
そこでユウキは、スローボールを投げてスタンドを沸かせた。
そしてカープ石原慶幸から三球三振を奪い、プロ野球人生を終えた。

プロに入る投手の中では、才能に恵まれた選手ではなかったかもしれない。
しかし自分の持っている能力を最大に使い、知恵を使い、肩をすり減らして投げた118試合は28の勝ち星をユウキに与えた。

トライアウトを受けてまで現役を続行しようとしたユウキが「引退」を口にしたということは限界がきたのだろう。

神宮球場でプロの投手が投げたもっとも遅い球に、どれだけの勇気と身を削るような思いがあったかをファンは決して忘れない。

2022年4月、母校である杜若高等学校の監督に就任した田中祐貴氏。
今後どんな選手を育てるのだろうか?
きっと恐怖から逃げない強い気持ちをもった選手を育ててくれるだろう。
いつか、田中祐貴監督が育て上げた選手をスワローズでみてみたいものだ。

このコラムは2010年9月16日に「東京ヤクルトスワローズ観察日記」に掲載したものへ加筆、訂正したものです。


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公式戦は現地観戦、テレビ観戦すべて試合評として挙げる予定です。FC2「スワローズ観察日記R」では13年連続公式戦、ポストシーズンすべて書いてきました。球団への取材などは行わず、あくまでもプレー、作戦などから感じた私的な試合評になります。

プロ野球東京ヤクルトスワローズの試合評を、オリジナルデータやプレーを観察したしたうえで、1年間現地、テレビ観戦を通して個人的なや評論を書き…

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