平成のラジオ(2)バブルと自粛との狭間

 「新しいものが次々に生まれる」というのを好景気と捉えるなら、世に言う「バブル景気」の時代は、ラジオにとってもそうだった。

 とはいえ、日本の民間放送ラジオは「生まれてからほぼ、不遇の時代」と言う人がいる。
 昭和26年に民放ラジオ第一号が開局しているが、昭和28年には、NHK総合テレビと日本テレビ放送網が開局。テレビ普及率が当初低かったとはいえ、受信機はやがて低価格になり、さらにカラー化。皇太子ご成婚、東京オリンピックで人々は画面にクギつけとなる。
 しかし、トランジスタラジオの登場、カーラジオ、深夜放送、大型ワイド番組、FM開局といった出来事が、ラジオをなんとか後押しした。
 こうして、ラジオは昭和を駆け抜けた。そして今もある。60年以上ずっと「どっこい生きている」的なのがラジオだ。

 その昭和の終わりから平成にかけてやってきたのが、民放FMの開局ラッシュ。

 1985年に横浜エフエム放送(FMヨコハマ)が開局。NHK FM、FM東京という老舗既存局のように、クラシックからジャズ、歌謡曲から洋楽のポップスなど、オールアラウンドのジャンルを高音質で放送するのではなく、ロック、ポップスなどを中心にした、ある種「専門局」に近い形での放送に、既存FM局に飽き足らないファンが、F横を支持した。

 横浜は、ラジオ界に新たな風を吹かせた。
 しかし、さらなる風が吹き始めた。
 東京に2つ目のFM局、他にも埼玉や千葉、山梨。そして大阪にも2局目、兵庫、京都に、時期は違えど周波数が割り当てられ、開局の兆しが見えてきた。免許獲得に向けて、地場の大手銀行、鉄道会社、流通大手などが名乗りを上げる。

 東京周辺の開局では1988(昭和63)年8月8日、山梨・エフエム富士(FM FUJI)が一番手になった。しかし、局は当初から「山梨県だけ」を意識していなかった。県内の送信所だけでなく、県東部、東京都との都県境の三ツ峠に送信所を構え、東京でも聴けることを売りにしていた。当時の印刷物(タイムテーブル、ステッカーなど)は「TOKYO 78.6 KOFU 83.0」と、東京を先に記した。それは30年を過ぎた今、公式サイトも「TOKYO78.6MHz KOFU83.0 & 80.5MHz」となっている。

 本丸・東京に第2局が開局するのはそこから2ヶ月をたたずして、10月1日にFMジャパン(J-WAVE)が開局。
 そして伏兵ともいえる、埼玉にエフエム埼玉(Nack5)が開局したのは10月31日。3ヶ月もない期間で、首都圏で聴けるFM局は倍増する。この開局ラッシュを前にした1988年7月、FM横浜は完全オールナイト放送を開始。深夜3時から朝6時にかけて2つの音楽番組をスタートさせた。


 9月、昭和天皇の容体が急変。闘病生活に入り「自粛」の空気が社会に生まれる。しかし、FMラジオ局の開局は、そうそう変えられるものでもない。予定した通りに開局し、首都圏の空に、新たな電波が飛び交った。J-WAVEは闘病中の昭和天皇に配慮し、開局当日の番組では、予定していた海外からのお祝いメッセージなどの放送は控えたという。

 後日の項になるが、これらの局は個性を発揮して、FM局戦争の時代が過熱するが、その色の違いは、番組編成や選曲以外の場所でも発揮される。

 冒頭のバブルの話に戻る。
 よく、放送業界や芸能界問わず「タクシーの無線呼出しは、裏電話番号にかける」「1万円札をヒラヒラさせて、手を上げてもタクシーは止まらなかった」といった「あの頃の伝説」を聞く。

 1990(平成2)年10月。
 文化放送で、新しい夜のワイド番組「キッチュ!夜マゲドンの奇蹟」の放送が始まった。
 バブル真っ盛りのこの時代、その一端が垣間見える当時の現場の様子を、番組の新人作家だった、放送作家・鮫肌文殊はのちに自著に記した。

 世間のバブルの波は東京四谷の文化放送にも届いていた。
 ラジオの仕事が終わって松尾(貴史=番組パーソナリティー ※筆者注)さんと飲んだくれて帰る時のタクシー代も「タクシーチケット」で払ってくれた。
 「ぶんどった予算を年度内に使ってしまわないといけないんだよねえ。鮫ちゃん、これ使ってくれていいからさあ」
 超のつく駆け出し作家のオレにまで、名前を書くだけでタクシー乗り放題のタクシーチケットを一冊丸ごと渡す。予算削減の嵐で会議の時に飲み物も出なくなり、作家が自分用のお茶持参で構成会議に出席しなくてはならない現在の放送業界では考えられない大盤振る舞い。
 浮かれていた。
 なんだか業界全体が変な熱に浮かされていた。

 余談だが、常連投稿者になったことで、私のその後の人生を決定づけたラジオ番組だ。


 リスナー側にも「恩恵」は多大にあった。
 思えば、放送作家になりたいとか、ラジオの仕事をしたい。だからそのきっかけに…というよりは、採用されることでもらえる番組グッズや、スポンサー商品が貰えることが嬉しかった。番組にはヘッドフォンステレオなどを扱う家電、青年向け雑誌の出版社、食品(カップラーメン)など、学生にとって嬉しい企業名が、数多くスポンサーに名を連ねていた。写真の番組テレフォンカードは、携帯電話のない当時、本当に有り難かったのだ。
 
 この番組が放送されていた1991年は、ラジオ広告費のピーク。
 2406億円を計上した年でもある。

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<参考資料>
「首都圏に8月から10月に相次ぎFM開局 個性で勝負します」(読売新聞 1988.07.12 東京朝刊)
「進むFM開局、個性化に拍車 音楽で生活空間をデザインする時代(解説)」(読売新聞 1989.09.30 夕刊)
「FM横浜、24時間放送スタート 多局化を前に番組改編」(朝日新聞 1988.07.07 東京地方版/神奈川)
「音楽放送専門のFMジャパンが東京に開局」(朝日新聞 1988.10.01 東京夕刊)
鮫肌文殊「らぶれたあ オレと中島らもの6945日」(講談社 2016)
「日本の広告費」(株式会社電通 各年次別)

☆当noteでは、筆者の記憶とある程度の資料をもとに「平成のラジオ」を残していこうと考えています。記憶違いも多々あろうかと思いますが、ご指摘などありましたら本コメント欄や、Twitter @fromcitytocity までいただけたら幸いです。

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