平成のラジオ(1)もうひとつの昭和の終わり 〜渡辺美里と日高晤郎〜

第一報は、深夜放送の最中だった。

1989(平成元年)6月24日・土曜日。午前1時40分頃だったと記憶している。

TBSラジオ『渡辺美里のスーパーギャング』の中で、速報のかたちで歌手・美空ひばりの訃報が伝えられた。そして、通常のコーナーに戻り、しばらく時間が過ぎたところで、渡辺美里から「今夜のスーパーギャングは、2時30分までの放送です。このあとは美空ひばりさんの特別番組をお送りします」とのコメントがあった。

いつもは3時までの放送を短縮し、3時までの30分間が急遽、報道特別番組になった。その後、3時からは『歌うヘッドライト〜コックピットのあなたへ』。トラックドライバー向けの生放送の演歌・歌謡曲番組だ。その時間までは聞いていられなかったが、番組の性質上、美空ひばりの曲もかかったであろう。

当時は、テレビの深夜番組ブームでもあった。1987年以降、各局では終夜編成が実施されていた。金曜の夜には『いきなりフライデーナイト』(フジテレビ)などの生番組もいくつかあったが、速報を受け、未明に報道特別番組を展開したのは、TBSラジオだけだったように記憶している。

明けて、土曜日の朝。1台のタクシーが、ある放送局の前に到着する。

車から降りた男は、待ち構えていたテレビカメラに向かって喋り出す。「今朝は最悪です。6月24日、最高の土曜日にしようと思っていたのに…美空ひばりさんが亡くなりました」

2018年に逝去した芸人・日高晤郎である。

この年の秋に発売されたビデオ「晤郎七色八面体」(バップ)は、日高のラジオ番組「ウィークエンドバラエティ 日高晤郎ショー」(北海道・STVラジオ 1983-2018)の舞台裏を中心に、彼のライフワークである「語り」や、リスナーとの交流などを記録したもの。人気ラジオ番組の裏側を中心につくられた販売もののビデオは、当時珍しかった。その映像は、6月24日・朝7時。札幌市中央区のSTV放送会館に入る日高の姿から始まる。

映像の中で流れる、生放送前のスタッフとの打ち合わせシーンでも「ひばりさんの曲のリクエストは受け付けないよ」「曲をじゃんじゃんかけるのは、喜んでいるみたいで、嫌だよ」「今日偲ぶのは、あまりにも…」と話している。

そして午前8時、当時のテーマミュージック、ジャニス・シーゲル『How High the Moon』の軽快なメロディーにのせて、9時間生放送の『晤郎ショー』がスタートする。冒頭の1分程の挨拶でも日高は「私にとっての昭和が、これで終わりました」と語る。しかし番組では、昭和50年代に日高が美空ひばりにインタビューした模様が放送された。

日高は大阪生まれ、俳優として京都の映画撮影所でデビュー。その後東京へ。
糊口をしのぐため、四谷・荒木町の店などで深夜にギター1本で歌っていた。その四谷の店の客として、深夜より前の時間に足を運んでいたのが美空だったという。だからあなたに会いたくても会えなかったんです、と。2人は旧い思い出話とばかりに笑っていた。

その後、日高は歌手デビューを果たす。しかし、歌手として大ヒットには恵まなかった。
北海道の地で、全国から注目されるラジオスターになるのは、はるか先のことだ。

だが、歌手へのきっかけは「あなたの歌、いいね」と声をかけた、店の客の一言だった。
声をかけたのは神津善行・中村メイコ夫妻だという。中村は美空の親友だ。

そして美空が逝去した6月24日は、日高が毎週、尋常ではない熱を注いでいた9時間の生放送の日、土曜日だった。

「今日はひばりさんの歌のリクエストは遠慮してほしい、と私が申し上げたら、まったく来なかった」「ひばりは、まだ生きています。残念です、腹立たしいくらいに、悔しいです。」日高は力強く話した。当時の「秘蔵音源」ともいえるインタビューテープを流したのは、番組と日高の、リスナーやファンへの感謝だったのかもしれない。

平成のラジオを見つめるには、昭和の終わりを見つめないと、始まらない。

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参考資料:「ラジオパラダイス」1989年10月号(三才ブックス)
     日高晤郎・著「こころ折々つづれ織り」(日刊スポーツ出版社)
     ビデオ「晤郎七色八面体」(販売:バップ 制作:バリウス札幌)

☆当note.では、筆者の記憶とある程度の資料をもとに「平成のラジオ」を残していこうと考えています。記憶違いも多々あろうかと思いますが、ご指摘などありましたらTwitter @fromcitytocity までいただけたら幸いです。


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