河野美恵インタビュー(2)「私が出会った先生たち」
「バッコスの信女 白石さん」
あこがれの早稲田小劇場へ
河野 早稲田小劇場の舞台を観たい、生の声を聴きたいと一心に思ったので、とうとう劇団に電話して、稽古を見せてもらえませんかと頼みました。「劇団の主催者に話しておきます」と返事して下さって、後日、何月何日から稽古が始まりますからどうぞ、という連絡をいただいたんです。それが豊川さんという男性の方で、主催者というのが有名な演出家の鈴木忠志先生でした。
ーー東京へ行くのは初めてだったんですか?
河野 いえ、立体裁断の夏期講座へ行ったことがあります。でも教室へ行っただけで、地理はまったくわかりませんでした。劇団の稽古は夜と聞いていましたので知らない土地で夜に行動することになるだろうと、一番に安心して泊まれるところをと真剣に考えました。そして、ご近所の羊羹屋さんの娘さんが東京に住んでいると聞いていたので、羊羹屋のおばさんに頼んで娘さんのアパートに泊めてもらうことにしたんです。もと子さんという娘さんが住んでいたのは高円寺というところでした。
ーーあゝ、羊羹屋のもと子さん、永福寺のご住職たちとトリオのジャズバンドを組んでドラムを叩いておられましたね。
河野 その人です。もと子さんに貸してもらった地下鉄の地図を見ながら高田馬場で下りて・・。早稲田大学の近くの「モンシェリ」という喫茶店の二階へ、そこが早稲田小劇場の稽古場でした。夜ですよ。白揃いに着物下、ステテコのようなズボンに足袋を履き、足踏み鳴らして発声する、それは後に鈴木メソッドと呼ばれている訓練法だと知りました。観る身にも応える力強いものでした。
ちょうど1974年の岩波ホールができるときで、館長の高野悦子さんから”こけら落とし”に早稲田小劇場の演劇をと依頼されてその舞台の稽古をしているところでした。
夜遅く人気のない学生街で緊張感にみちた凄みのある舞台の稽古が続けられている。もう全身で感動してしまって、私も演劇をやってみようか、と本気で思いましたね。(笑)
ーーそのときは稽古を観ただけですか。
河野 そうなんです。稽古を観て感動して、そして虚しくて、描かなければ何も掴めない、この次は絵の道具を持ってこようと思い決めて、染色でお金を貯めて、次に上京するときは、もと子さんが別府へ帰っていたので、もと子さんの妹さんが住んでいる青山のアパートに泊めてもらいました。
この2回目の上京のとき、早稲田小劇場の稽古場で、豊川さんに「今回は絵の道具を持ってきています。白石さんに紹介していただけませんか」と頼みました。稽古が終わったあと、高田馬場の『田舎』という食事処でみんなが夜食をとるとき、白石さんに紹介していただいたんです。
間近で白石さんを見たとき強い生命力と静かな美しさを感じて、なんとかそれを捉えたい、表現したいと思いましたね。
「私は何をすればいいんですか」と白石さんに率直に聞かれて、温かい方だなーと驚きながら「モデルになってほしいんです」と頼みました。
「いつも深夜になりますよ。それと、私が言うところにあなたが来れますか?」と聞かれました。「私が言うところ」とは麻布十番にあった白石さんのご自宅でした。私は必死で「どこでも、何時でも行きます」と言って、午前1時に麻布十番のご自宅へ行くことになったんです。
――初めて会ったその日にですか。
河野 そうです。その日しかなかったんです。翌日は寝台特急に乗って帰らなければならなかったんです。白石さんを前にして白い紙を見つめた一瞬、恥ずかしくて恥ずかしくて心が震えました。大分から持って行ったスケッチブックに、何枚も何枚も・・。夢中になって描いていたら、ふと耳にカチャカチャと牛乳瓶がふれあう音が聞こえてハッと気が付いたらもう夜明けで、牛乳屋さんが来る時間でした。
このとき描いた最初の『白石さん』の絵は、のちに大分市のキムラヤで個展をしたとき、宮野蔵人という方が買って下さいました。こういう方が買われたと岩尾先生に話したら「宮野蔵人? そりゃ凄いぞ。同業者じゃ。目利きじゃ」と言われました。(笑)
*宮野蔵人(みやの・くらと)
1913(大正2)年生まれ。大分市佐賀関木佐上出身。大分師範学校から東京美術学校に進み油絵を学んだ。大分県立緑丘高校教諭、県立芸短講師。県教育委に在籍した。88歳で逝去。
「顔」
「顔」
白石さんを描く
もと子さんの妹さんのアパートは木造の古い家で、合鍵を渡されていましたが、鍵をかけるのが大変。どうしても鍵がかからないときがあって、白石さんとの約束の時間は迫ってくるしで、とうとう内側から鍵をかけて、自分は窓から出て樋を伝って下りましたね。
――アパートの部屋は二階だったんですね。見た目より運動能力がありますね。
河野 もう必死ですから。ところが、その妹さんも別府へ帰ることになって、さてどうしようというとき、思い出したのが尚志会館でした。
18歳か19歳のころ立体裁断の夏期講座を受けたとき泊まった宿です。鉄輪のご近所に大分大学教授の後藤文夫先生がおられて、同級生のお父さんだったので、同級生の美保ちゃんに頼んで、先生の常宿を紹介してもらったんです。六本木の繁華街から一本入った閑静な高級住宅街にある古い立派な日本家屋で”尚志会館”という名前でした。それは広島文理大の同窓会館で、元は歌舞伎役者の松本幸四郎さんの自宅だったという建具も調度も美しい邸でした。美保ちゃんに頼んでそこにまた泊めていただくことにしました。
年配の女性の管理人さんがいて、お掃除が行き届いていて、宿泊料金が安い。おまけにバルコニーに新聞紙をひろげて、絵を描くことができたんです。
夜中に絵を描きに行く事情を管理人さんに話すと「わかりました。気を付けて行っていらっしゃい。真夜中に帰られるのなら玄関の鍵は開けておきますからね」と言って下さったんです。今ならそんな物騒なこと許されませんよね。(笑)
――白石さんのお宅には、それから何度も通われたんでしょう? 何枚も絵が残っていますよね。
河野 ええ、ご自宅に何度か行きましたが、うちまで来るのは大変でしょう、と白石さんが気を遣って下さって、稽古が終わったあと白石さんが尚志会館に来て下さるようになりました。その頃の日記に書いてあるんです。『ある寒い夜、部屋の電球の暗さにスタンドと電気こたつの灯りを足して描かせて頂く。帰るとき白石さんが差し出された握手の手に絵の具で汚れています、と遠慮すると「いい」と言って握手して下さる。』
ところが、とてもいい宿だった尚志会館が建て替えのため、地価の高い六本木の土地を売って大森に移るということで、取り壊されることになったんです。管理人さんのお話だと家具調度、建具もすべて廃棄処分になるらしいので、勿体ないなあと思って、白石さんに障子やフスマなんか舞台で使いませんか、と話したら、ほしいということになって、後日トラックで劇団員の方が取りに見えたそうです。
そんなことで、私はまた宿がなくなったので、どうしようかと思って白石さんに相談したら、ご自宅の近所にある旅館を紹介して下さいました。そこは物干し台のついた明るい畳の部屋があって、絵を描けるし、安く泊まれました。何匹も猫を飼っているおばあさんの経営で、ドアなんかない、フスマだけの古い日本家屋ですから、ときどき職人さんたちが泊まるときは、私の部屋のフスマに突っかい棒をして用心しました。(笑)若い田舎娘ですからね。服装も黒いジーパンにひっ詰め髪でノーメークという 色気のない出で立ちで、夜中にタクシーに乗るときも、どんなことになってもいい!と覚悟を決めて乗りましたね。幸い危ない目には遭いませんでしたけれど。
「顔」
「顔」
「顔」
「豊川 潤さん」
「豊川 潤さん」
『自分』への集中
河野 1976年ですか、早稲田小劇場が富山県の利賀村に根拠地を移しましたよね。利賀山房のオープニングでは狂言、能楽、舞踏、何よりも鈴木先生の演出でしか観ることの出来ない白石加代子さんの美しさ、豊川潤さんの気色、美しいとは何者ぞ、と演出の妙を教えて頂きました。
ーーで、その後は何を描かれたんですか。
河野 はい、ある年、上京するのにぎりぎりまで染色していて寝台特急富士に乗り遅れたんです。駅員さんに今夜中に富士に追いつく方法を聞きました。乗車券があるから広島まで行けば夜8時20分に富士に乗れると。教えられたとおりに列車を乗り継いで広島に到着して、暗い広島駅のホームで富士を待っているとき、ふと「私って人間は・・」と自分に向かって意識が走り出しました。
それからは興味の対象が自分になって、自画像を描いてきましたね。
ーーあゝ、それ以後が自画像になるわけですか。宇治山哲平先生に下見会で無視されたことをきっかけに、白石加代子さん、早稲田小劇場、鈴木忠志先生の富山県利賀村と行動半径が広くなってきて、最後に自分に戻った、ということですかね。
河野 そうですね。最初に上京して早稲田小劇場を訪ねて、白石さんの小手先事ではない世界を目の当たりにして、宇治山先生の思いを理解し、「小手先事では描かない」というのが自分の原点でもあったはずだと自覚できました。無視するということは相手を傷つけるから、恨まれて嫌われることでしょう。それを、あえてするというのは、何と強い人だろうか。「無視」って「いい加減」とは対極にありますよね。お座なりなことは言わないで、「無視」。やっぱり宇治山哲平先生は大した方だと一人で思って、よし、もう一回、自分で納得するまで描いて、国展に通ったらそれで辞めようと思って、翌年国展に出したら、通ったんです。それきり、展覧会に出すということをしていません。
岩尾先生がお元気だったころ、飲み会の集まりの席で隣に座ったので「宇治山哲平先生は大した方だと今では思っています」と話したら、岩尾先生は笑いながら「ホントかー? おまえ、心からそう思ってるのか。本心は恨みに思ってるんじゃないのか」とか、からかわれましたけれど。(笑)
――そういえば四十年くらい前でしたか、夜、河野美恵さんとお話ししたら、人間の胃袋は拳ほどに小さくもなるし、ものすごく大きく膨らむこともできる、という話で、面白いことに興味を持つ人だなぁと思いましたが、あのころは自分の胃袋の研究をされていたんですかね。(笑)
河野 ?
インタビューおわり
「植物」
「植物」
「自画像」
「自画像」
「自画像」
「自画像」
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