問い掛け-12<初めての転校>

<初めての転校>

 初めての転校二学期が始まり、いつものように、毎朝ガランとした教室に一人ポツンとやって時を待つ。そんな無為な憶い出しか残らないクラスと別れることになった。
 50人近いクラスなのに今も友だちの名前が浮かんでこないのは何故だろうか。多分、顔と名前を覚える間もなく、転校したからなのかも知れない。
 転校の理由は、またも引っ越しだった。養父が再び、自縛霊を曳き合いに出し、この家に居たら寿命が縮んでしまうと騒ぎ出し、急遽引っ越すことになったのだ。 

 五度目の引っ越し先は数キロ離れた農家の納屋の二階。
 引っ越しの当日、なぜかタマが帰って来ない。養父が「もう縁が切れたんじゃのお」と諦め、シロだけを連れ、タマは運悪く見捨てられた。ところが、それから一カ月後、なんと タマは痩せこけた姿で突然、養母の前に現われた のだ。一番喜んだのは養母だった。養父は、「犬は三日の恩を三年で返し、猫は三年の恩を三日しか覚えずというが、タマは違うのお」と言って、褒めたが、その内容がチグハグなので養母と密かに笑ってしまった。

 さて、一方の私は、前の学校でお別れ会を開いて呉れたにも拘わらず、何の記憶も残らぬまま、慌ただしく引っ越しが終わり、転校先のクラス全員の名前と顔を覚えるのに必死 だった。 養父の影響もあってか、余所者だからと大人しくしていてはダメだと思い立ち、クラスのガキ大将・S君に目を付け、どういう訳か殆んどが喧嘩の毎日。と云っても小学一年生。ジャレ合っているようなものかも知れない。
 或る日、授業が始まっても、取っ組み合いの喧嘩をしていたために、二人共、廊下に立たされたことがあった。逆に一方では、あまり目立たない子や苛められ易い子、大人しい子を庇っ たり、時々家にまで至って、なぐさめたり元気付けたりするのが大好きでお節介なこともした。 もちろん、御両親からも歓待され、本人も明るくなりそんな笑顔を見るのが嬉しくてたまらなかった。

 しばらくするとクラス担任の家庭訪問があり、外から帰って来た私は、ひどく寂しそうな面持ちで伏せていた養母を見て、どうしたのかと訊ねて見ると、 「O先生がのお、『一明君は、喧嘩ばかりして本当に困りますねえ。授業が始まって も教室の後ろで、まだ取っ組み合いの喧嘩を続けている有様です。このままでは将来どんな人になるか判りませんねえ。』と仰有ってのお、母ちゃん悲しかったぞ。でも、この事は、父ちゃんには絶対ないしょじゃからのお・・・・。」と。
 その夜、寝付くまでずっと気分が沈んでした。 僕は母ちゃんを悲しませてしまったと深く反者し、考えを改めないといけないなと自分に言い聞かせた。
 翌日からは一変。S君の挑発に乗ることなく凝っと机に坐り込み、我慢した。

 そして、週末に丸一日かけて怪獣ブースカの絵を大きな画用紙に描いて養父母に見せた。 もちろん養母を喜ばせるためだった。すると養母は、この絵をO先生に見せなさいと薦めるので、勇気を出して、翌日、学校の職員室まで行き、畏る畏る先生に見せ、先生の表情を窺っていたら、「うん、これは上手な絵だ。」と褒められ、なんと先生は、
「この絵を、額に入れて教室に飾ろうじゃないか。」
と仰有るので、ビックリ仰天。
 俄然私はクラスの人気者になり有頂天になった。その絵は、私が転校するまで、美術室に飾られていた。S君とはプロレスごっこの良いライバルとなり一度家まで遊びに行ったことがある。
 彼は七人兄弟の末っ子で、皆んなから可愛いがられ近所の人たちからも愛されていたのを 知り、深く印象に残った。
「遠いのに、よくこんな所まで遊びに来て呉れたわね。」 と、お母さんに感謝され、彼と一緒にお小遣いを貰った覚えがある。

 いま思い返すと、あの時の先生は、教室に私の絵を飾ることで、心境の変化を期待していたのかも知れない。否、もしかして、養母に少し言い過ぎたのを反省しての案なのかも・・・・まさか、でも運よく、私の方から歩み寄り、しかも絵という恰好の緩衝媒体を持 ち込んだことが、功を奏したのかも知れない。いずれにせよ、養母とO先生のお陰で、 少し成長させて戴いた。そして絵を描くことに自信を持ったのも、これがキッカケだった。

 真の教育とは本人に自信を与えることではないだろうか。O先生はその絶妙なタイミングを逃さない、優秀な教師だったのかも知れない。多分、そうだと思う。子供たちの可能性 を活かす教育とは、どうすることなのか、改めて感ぜずにはいられない。 そう感じることが出来たのは、これから二十数年後、塾を経営するようになってからだった。

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続く

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