問い掛け-13<交通事故>

<交通事故>

 二年生の二学期、ブレーキの利かぬ自転車で友達と遊んでいる最中、ダンプと衝突した。

 養父は仕事の関係上当時、日本全国で交通事故が多発し、子供の死者が多いのを危惧したためか、私には当然、自転車を与えぬ主義でいた。まさか、既に私が自転車を乗り熟していたとは思ってもおらず、事故の報せを知ったとき一瞬、耳を疑ったという。その自転車は友達のボロボロになった御古だった。

 日曜日の昼前、見通しのよい県道の直線道路で起きた不思議な事故だった。もちろん、その自転車はダンプの下敷きにされ全壊。

 運転手は、「もうダメだ、子供を死なせてしまった。」と観念したという。養父は、家で浪曲の鑑賞中に近所の誰かに呼ばれ、

「一明ちゃんがダンプに轢かれ、救急車で運ばれたそうですよ。」

と報らされたとき、普通車でなくダンプが相手ならもうダメだ。死ぬか、もし生きていても片輪になるだろうと既に諦めていたと言っていた。そのとき、養母は仏壇にそっと手を合わせ、拝み続けていた。事故に遭ったとき、私は現場から数十メートルも離れた場所。そこは県道に沿って流れる河川の上に、気絶し、俯せになっていた。

 運転手は真っ青な顔で、恐る恐るダンプの下を覗いた。ところが、自転車しかなく、当の私が消えたようで、夢中でダンプの周りを探していると、遠くの河川に子供が倒れているのを発見し、後頭部の左側にバックリと開いた切り傷があったと供述している。

 何故、そこまで飛んでいったのか、運転手も一緒に遊んでいた友達もよく判らないと言って不思議がっていた。当時も今もだが、事故の時の記憶は全く思い出せない。

 頭の怪我以外にこれといった打撲もなく、二週間の入院で退院できたのが、まるで奇跡のようだった。

 入院中、同い年の女の子が盲腸で同部屋となり、当然仲良くなり、その隣りに退院間近の中学年のお姉さんが移って来たので、同い年の女の子と話し合い、お姉さんの退院祝いとして、昔噺の「傘地蔵」の紙芝居をしようと決定。私が絵を描き、その子が喜に台詞を書き、そして当日、二人でお姉さんとそのお友達と御両親の前で無事披露したことがあった。

 こころ和やかで愉快な入院生活だった。頭の怪我は七針の傷で、脳波にも異状が無く、その後の後遺症も目立つものは無かった。養父は、事故に遭ったその日の夜、夢に御先祖様が現われ、私を助けたのだと、そう告げられた事を、退院後、御先祖様に感謝しなければいけないぞ、と眼ですごむようにして、力説した。軽傷で助かった訳がそれだったのかと、疑念が氷解した。

 二週間振りに学校に戻った私は、まるで違うクラスに移ったかのような、そんな異和感を覚え、クラスの皆んながなぜか私を特別な人、という好奇な目で見ているかのようで居心地が悪かった。でも、担任のK先生は以前と変わらず、頷きながら入院中の話しを優しく、聞いてくれたので安心した。

 その二年の担任は女の先生で、初めて見たとき、まるで「かぐや姫」のような美人先生だった。こんな人がお母さんであったなら、本当に良いのになあと、そんな憧れと同時に淡い初恋のような、胸が温かくなる気持ちにさせられる若くて優しい先生だった。

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続く

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