問い掛け-16<喪失した記憶とリンクするベストセラー>

<喪失した記憶とリンクするベストセラー>

 この頃の私は、特に好奇心旺盛な小学三年生で、何んにでも興味を抱き、見るもの聞くもの全てが楽しくて堪まらなかった。テレビから得られる情報は光も大好きだった。因みに養母はプロレスが大好きだ。

 ところで、五歳以前の記憶を殆ど忘れてしまった私は、幼稚園に通っていたことさえ忘却の彼方へと押しやってしまった。学校のアンケートに園名が記入できずに困ったことがある。

 よく考えるとやはりダンプとの事故が原因で、記憶の一部が欠損し、喚起できずにいるのではないかと最近になって漸く判るようになった。

 いずれにしろ、五歳以前の記憶が薄れ、六歳以後の記憶で物事を判断するためか、それによって養母を母だと信じることが出来たことは短い間であれ幸いであったのは確かだ。

 ところが、この時期になって、生まれたときの体重や、写真の少なさ、そしてF姉ちゃんの存在等、数々の疑念が大きく膨らみ出し、いつの間にか正体の知れぬ誰かを責め立てようとする自分が嫌いになった。

 養母に面と向かって言えなくなった私は、アルバムの子に向かって問い掛けることが益々増えてきた。

「なにか変だなあ・・・・おかしいなあ。もしかしたら・・・・」

と考え、そのもしかし たらが、もし現実と成ったとき、僕は、どうすることも出来ないし、むしろ養母を困らせることになるのだ・・・・と、ためつすがめつ思い返してはブツブツと呟き、結局、浪曲のストーリーに出てくる里子と同じであっても、やはり育てて呉れた親の方が当然エライはずなんだからと、自分なりに精一杯悩んで考えた挙げ句の結論がそれだった。これで少しだけ安堵できたのだ。

 勿論、当時の私が理性でもって諒々とそれらの疑念や不安を論理的に解消できる訳がな い。ここまで到達できたのはやはり、浪曲による恩恵だろう。大団円で幕を閉じる御涙頂載の浪花節を、幾度も聴かされ、いつのまにか刷り込まれていった。そして、養母との絆、人間性に感化されたのがひとつの遠因ではないだろうか。

 国語の授業で、K先生がベストセラーの本を示し、感動の名作だと自信を持って紹介するので、このときばかりは真剣に覚えていた。特にその本の副タイトルに心が惹き付けられた。早速家に帰って、養父母に、その本を買って呉れと、珍しくせがんだ。

すると養父は、

「学校の先生が教科書以外にあれを買え、これを買えと言う筈がない」

と言い返し頑として信じようとしない。私は、

「K先生はベストセラーの本だと言ってるし、先生が紹介する本だから、きっと校長先生も薦める本だよ」

と、思わず校長先生まで持ち出してしまった。

養父が「校長先生」という権威に弱いと思ったからでなく、養父の過去にある校長先生から褒められたという自負と優越感がそれを刺激するのではないかと思ったからだ。もちろん考えたのではなく、咄嗟のことだった。

 養父は『少し待っちょれ』と言い直し、数日後、パチンコの帰りに本屋へ寄って買って来たのだと継げられ、その本が目の前に差し出されたときは本当に嬉しかった。本が宝物のように思え、このとき程、養父が輝いて見えたことがあっただろうか。

 例えそれがパチンコで勝った泡銭であろうと私は養父に心から感謝した。

 この本の題名は「ユンボギの日記」で、副題が「ハトになってお母さんを探したい」というものだ。今、翻って見るとなぜか主人公の心情的共感を醸し出す、どこか不思議な縁を感ぜずにはいられない本だった。

 本の内容は、韓国人の少年だった。突然、姿を消した母に思いを馳せ、貧しい生活の中、 主人公の少年が靴磨きを生業とし、父や妹を助けつつ、日記を綴る内容だった。健気にも、 逞しく生きようとする姿勢と、正直な心、いつの日かきっと母を探して見たい、もし僕に翼があれば、ハトになってお母さんを探したい、という切なくも儚い夢を追い続ける少年の生きざまを描いたノンフィクションだった。

 思うに、もしかして養父は、先生が本を紹介したことに反対したのではなく、この本の内容が、余りにも私の生い立ちと合致するので、それを畏れ敢えて反撥したのだろうか、 と穿ってみた。本のタイトルとその内容を話したとき、養母は暮っと黙り込み、ロを挟まなかった。何故、私がこの本に興味を抱いたのか、養母は薄々分かっていたのかも知れない。私がアルバムを開き、何かブツブツ言っているときも養母は一度として介入することは無かったのだ・・・・ 。

 やはり、いつかきっと、判るときが来るのだ。と、そう踏んでいたから、静かに見守っていたのかも知れない。

 それから後。

 またまた、六度目の引っ越しが始まった。 いつもの事で、養父が突然言い出すのだ。この度は何が原因で引っ越すのか、その訳が全く思い出せない。少なくとも以前のように地縛霊の所為ではなかった・・・と云っ ても、この家に住んでた期間、佐伯家に起きた災難は多く、それ以上に失うものが多かっ たのは確かだった。

 私の事故や学会員への不信、タマたちの凍死もあり、もしかしたら私の知らないとき、抜き差しならぬことが養父に降り懸かっていたのかも知れない。

 越した先の家は、小学校の裏門の真横に隣接する平屋の一軒家だった。五十坪の敷地で風呂や土間も在る三間の家で、昔、何かの商売をしてたのか、玄関が広く、引き戸が全てガラス戸になっていた。

 その翌日から私は、風呂焚きの家事が与へられた。当然、帰宅の門限が四時三十分となった。風呂を焚き始めるギリギリの時間だからだ。その分、外で遊ぶ時間が削られ、徐々にストレスを感じ始めた頃が、この時期ではないだろうか。

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