問い掛け-20<辞職、転校、そして引っ越し>

<辞職、転校、そして引っ越し>

 小学五年の一学期が終わる頃、養父は、上司との喧嘩がキッカケで勢い余って辞表を出す顛末となり茫然自失。

 犠牲者はいつも養母と私だった。

 急遽、七回目の引っ越しが始まった。 ところが転職先はもちろん引っ越し先の目当てが全く無い。養母は養父のそんな身勝手な判断に対し、このときばかりは怒り心頭に発し、何日も喧嘩が続き、結局、山口へ引き返すことで治まった。

 突然の転校を報されてか、クラスは騒然となり、急遽お別れ会が催され、先生と皆んなが私の為に、一時限もの時間を割いて呉れた。胸が詰まってもう少しで泣くところだった。

 翌日、或る女の子が二、三人の女の子に付き添われて来たと思うと、唐突に手紙を差し出すので、少し戸惑った。それはラブレターだった。

 それから転校の当日まで例の女の子たちに追い廻され、逃げ惑うばかりの私は、傍から見ると滑稽に見えたと思う。

 大好きな理科のI先生から呼び出され、四年の夏休みに私が宇部から持ち帰った天然記念物のカブトガニをどうするかと訊ねられたので

「それは学校に寄贈したものですから、 そのまま、理科室に飾って置いて下さい。」

と応え、二、三の会話をして、

「いままで大変お世話になりありがとうございました・・・・、先生の授業、僕は好きでした。」

と一礼し、込み上げて来るものをグッと堪え、その場を立ち去り、職員室の先生方にお別れの挨拶を丁寧に終え、裏門を後にした。

 以前とは全く違う遠くへの引っ越し作業は、準備が大変で、シロは先に貨物便で送られ、一週間近く、駅員の人たちに餌を与えられていたそうで、養父は駅員に感謝し、お礼を述べて帰ってきた。

 転居先は、一軒家の三間の平屋で、山林と神社の境内が全て歴という場所だった。大きな神社の鳥居の内に建つ家だ。その先には空海が建てた元真寺という真言宗のお寺もあった。鎮守の森とはいえ、神社の境内は草ぼうぼう、荒地には落葉が堆肥の色を成し、木槿の花だけが輝いて見えた。隣接の敷地は公園らしき広場が在り、沼も見えた。

 しかし、神社の社殿は既に朽ち果て、廃墟同然の有様で、鬱蒼と繁る森の中の避暑地そのものでしかない。

 明治政府の神仏分離政策に据え置かれ、これほど立派な社殿を持つ神社であっても権力(法)には勝てなかったのだ。隣接する公園の屋外遊具も錆びたまま、放置されていた。

 この頃からだと思う、神仏に対し自然と手を合わせるように成れたのは・・・・。

 風呂焚きの途中、決まって本殿と元真寺までお参りをし、又シロの散歩時も必ず一緒に通う習慣が身に付いていた。

 いつの日か、空中にキラキラするものが見え出した。特に晴れた日は光が強く、周りの空気全てがキラキラ輝いて視えるとき、同時になんともいいようのない幸福感に浸れた。

 後に、その正体が空気中のプラーナであると判ったのは成人する頃だった。

 初めて元真寺を訪れたとき、ニメートル強の空海の銅像には圧倒され暫く凍てついていた。寺には誰も居無いのか、それとも瞑想中なのか、人の気配が全く無いことが不気味でならなかった。

 ときどき流行の修行場に足を踏み入れ、その厳かな雰囲気に浸り、思わずお経を唱えた。しかしその内容が違う宗旨のものなので、後で養母から笑われてしまった。養母もときどき一人で寺に参り、拝んでいたようだ。そして必ず雪の下や他の薬草を束にして持ち帰っていた。

 家から寺までの間は非常に狭く長い自然石の階段が百数十メートルもあった。その路傍には石地蔵が据え置かれ、百数十体並んでいた。佐伯姓を意識したのがこの頃であり、不思議なことが多くなる予兆だったのかも知れない。

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続く

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