決め打ち

時間を守れない。守ることを意識できていないともいえるけれども、何か苦手である。

時間を守るのは、時間をきちんと決めることである。決め打ちすることの一種である。
「決め打ちすること」が何か苦手である。決め打ちすることによって、「決め打ちすること」自体に意識が向いて、本来の目的を忘れがちになる。
決め打ちすることは、何かのための手段の1つのはずである。それが手段でなくて目的となってしまう。

時間のことだと、「この時間までに終わらせる」と決め打ちすると、ほかの要素が入ってきても、その決め打ちを最優先として処理してしまうことが多い。決め打ちした1つのこと以外はかなりの要素を切り落とす。

決め打ちしてそれ以外が見えなくなる
これは、かなり極端に言うと、何か目的を実行するためには「切り捨てる」ことをためらわずに行うともいえるように思う。その対象が、人であれなんであれ。

切り捨てること自体は、時に悪いことではないのかもしれない。単純にシンプルに一本道は通るし、その意味でなんらかの進捗は出る。しかし、そう進んだ先にはあまり良いものを見てこなかった。
1つの最初に決めた理屈に依拠して、ゴリゴリ理屈ばかりで推し進めたことがある。実際、「一度決めている」ことを相手も認知していると、一定の理屈ができる。ただし、”一定の理屈”のみで作られたものは不十分というか不完全というかなものになる。

その不完全さは、誰かの違和感を呼び起こしたり、何かを押しつぶしたりしている。何か幸せでない状況が生じる。

この決め打ちすることによって、より強固になる視野狭窄度合いと、その上で押し進めていってしまう。それは嫌なのである。

納得の丁寧な説明
たぶん、そんな押し進める状況になった時に、「私が納得する理屈で語ってくれる人がいなかった」のである。


小学2年の時、地域の祭りで「半袖短パンで来るように」という指定があった。祭りの日は天候が雨になり寒い日となった。
親や祖母は天候を見て、「寒いし長袖を着ていけばいいんじゃない?」というようなことを言ってくれた。ただ、私はなぜか「半袖短パン」の指定にこだわった
実際に服を着るのは私自身であったわけで、結果的に半袖短パンで参加した。他の子は、長袖を着ていた。
(この話自体は、ちょうど転校した直後であり、他と異なることに怯えていた要素や、たまたま連絡網に組み込まれていないタイミングだったため、長袖に関する連絡が来ていなかったらしい要素もある。)

この話も多分「長袖着ていいんじゃない?」というレベルでなく、「半袖短パンっていうのはこんな意味で書いてあるはずで、その意味で絶対に守らなければならないものではない。だから、寒さを防ぐような恰好したらいいんじゃない?」だったら納得していたかもしれない。
ただ、明らかにかなり煩わしいことを求めている。煩わしいということはやらないことが多くなるということでもある。やらないと分かれないことが多くなって、より迷子になっていく。

この辺の話のきっかけは多分
ある種の子どものころに言われた「言うことは守りなさい。」が強く続き続けている状態である。いまだにそれに倣っている。倣うことから逸脱できない。

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