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判断する/できるようになること。

課題感
何かを決めるということに関して、何かの「長」や最高学年などになると自然と行う。しかし、上に人がいると判断をためらうようになっているように思う。
実際、現在様々な判断は上に確認を取ることが多い。もちろん、知識や経験がないから当たり前である。しかし、判断すること自体は幾度となく最高学年になるたびに行ってきたはずである。

知識がないこと以外に判断をためらうことにつながる要素が何かあるように思われる。

そもそも、なぜ学校などで最高学年になった時は判断できたのか。
もちろん、(他に投げられる先がないので)「判断せざるをえない」という面もあったように思う。
上に誰かがいる際は無意識下で「自分は判断に足る技量を持っていない」と思っていた。しかし、最高学年とその下の代とで実力が大きくことなったりすることはない(ように思う)。

疑問
無意識で他人事になっているのであろうか。人に怒られることを恐れているのであろうか。自分より優れた判断をする人がいると認識しているのでそれを待っているのであろうか。

なんとなくであるが、「考えようともしていない」気がする。それは自分の課題ではありませんよ。という思いである。
それはなぜ生じるのか/むしろ、なぜ上に立ったらその考えようともしていないことを脱するのか。

主体感?
上に立って何かを考えるときには、何かを行動する/しないなど動きを決めているように思う。動く対象が何であって、それが動くと動く本体・その周囲で何が影響するのか(集団の話だと、集団の成員が何を動くかほかの集団に何が影響するのか)などに関心が向くきがする。

上にいるときは自然とその内容まで想定する。上にいないとその内容は想定できてこないことが多かった。
内容が想定出来ていない時は、ほかの人の生活をイメージできていないのかもしれない。知っている人の数や意見が純粋に少ないという意味である。(まったくもって想像できておらず、経験に頼りきりの限りである。)

価値基準
経験すれば/意見を聞けば見えてくる。経験や意見で得られるのは「ここはおかしいよね」という改善のポイントと改善されたのちの方向性であるように思う。
逆に言うと、(多少なりとも間違っていても)ある種の先入観を持って取り組めると課題感は浮かびやすい。先入観というかコンセプト・目標・こうありたい像であろうか。なるたけ遠い像を1つ作って、それになぞらえて、様々な要素を加味すると、上に何かいても(少なくとも主体的には)判断できるようになる。
もうちょっとそれっぽくいうと、判断するための「価値基準」を明確に決めてしまうということである。良し悪しは場面やあらゆる要素で変わるだろうけれども、とりあえずの基準をいくらか設ける。


まとめ、、
判断には、あらゆる関わってくる個人を想定できることが必要なのかもしれない。(その個人がどんな特性があって、どんな人が背後に関係していてということである。)
そのうえで、自分目標や、価値基準(こだわり)なんぞを探す。

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