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消えうるやる気?

価値基準の話。
自分にとっての関心がそこまで高くない物事で、新しく何かを作っていく際(既存のレールと別のものを考えていくさい)には何を自分の基準として考えていけばよいのであろうか。

基準としては組織とか理屈の上での方針(売上あげる)とか、求められる点を価値基準にするのもある。が、その要素にとどまらない要素や、求められることの2つが近づいた際に、最後の「自分の好み」的な思想性のあることがあるとよいように思う。

現在
新しい事業として農業的なことを行っていこうとしており、そこに参画している。事業において仕組みの構築が必要で、その仕組みについてどう考えるかということになっている。

正直、農業のことについてめちゃめちゃ関心があるわけではない。実際、農業について知識があるわけではないし、その目的で入社したわけではない。
もちろん、信州出身なので農業に関する雑な知識はある。教育に向かってそのような体験事業が役に立つとも思っている。さらに、今後(諏訪などで)新しいことをやるなら、そんな経営知識は学ぶ必要があると思っている。

価値基準的な
諏訪に関することは確かな価値基準になりえると思えるが、それ自体は、私がいま戸惑っていることについて判断しきれないように思う。

その意味で、何か基準になるものがないか。「偏執的にこだわってしまうものがないか」を考えてみると、卒論のテーマ性に関することがあがる。

卒論ではモチベーションを与えるという発想について考えていた。
その中で、モチベーションを与えるという発想自体はその「与えられる側思い」みたいなものは、切り捨てられているように思う。それが「内発的動機づけ」という言葉であっても与えるようなモチベーションになっている。
そこからの離脱が必要なのでは?(色々意見あるだろうけど)岸勇希さんの発想がそれに近いところにいるのでは?
ないところに与えるのでなく、すでに存在しているモチベーションを大切にすることがよいのではないか?

みたいなことを書いた。
この内容は、ある種の私のこだわりがある。「何かをやることを強いない」ということ。である。

ありそうなこだわり
たぶん、この要素が私にとっての今の時点で存在している関心である。
卒論を書いている時点では、モチベーションのやり取りが行われるのは1対1の構造で、1対1ならば、大切にすることもできるだろうと思っていた。
逆に言うと「集団性」をほぼ無視している。

集団性の中で、それぞれのモチベーションを大切にしつつ進むのかこだわりであるように思う。
それは実現できるような仕組みを考えられるのか。(なんとなく、コルクの佐渡島さんの人を生かすような発想としてはできるのではないかと思ったりしている。)

他にも要素があるのか、もうちょっと考えていきたい。

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