「確かに一理ある」みたいなこと。

誰かにとってポジティブな利益があるなら、その発想はありではないか。とくに、それによってちょっとばかし努力というか、一歩動かなければならないのが自分だけだとしたら、何も問題のないものではないか。
と割と強く思っている。

その皿の残り物をちょっと無理してでも食べた方が、片付ける側にとって都合がいいのであれば、無理して食べることに抵抗はないし、テッシュ配りの人が大量にもらっていくのが都合がいいなら、広告が入っていても大量にもらってよい。

なぞのためらい
一定、相手に利が確実にあること。相手の利を阻害する何かを自分が排除できること。(自分にとってもどっかの視点から利を観れること。)

ただ、自分にメリットがあるのはそんな小さい視点じゃない気がする。
その対象にとって、必要とされているというところがめちゃめちゃ大きい。たぶん、そうでもしないと居場所がないと思ってしまっているのである。
たぶん、それを埋めるための理屈である。

構造的にみること
また、変な視点で見ると、構造的に敗北しているものの後処理をしている。
作りすぎて残った料理で、片付けた方がいい状況は、「大きなお皿が残ってしまった状況」であったり、「作り過ぎてしまった状況」である。
計画時点で量を調整しておくことや、皿を準備しておくのが最適であった。

テッシュが早くさばけてほしいお兄さんには、テッシュの広告意図は伝わっていないように見えるし、手段の最適性は疑問である。(予算とかの都合で最適になるのかもしれませんが、、)

まとめ
かなり散らかってるままですが。「1本軸通るならありだなと思うタイミングは」自分の軸が明確でない可能性。と、何かもう1歩引いて考えると、別の解決案が浮かぶ可能性をはらんだものとなっているのかもしれない。

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