欄外を想像すること
「3回目のデートで告白してもフラれる理由を、150人抱いたナンパ師に台湾純愛映画で解説してもらった」という記事?ブログ?を読んだ。
「人のために何かをすること」を考えさせられるような話である。
昨日は、話のチューニングするようなことが人のことを考えるようなことなのではないかとか書いたけれど、それだけでは片手落ちなのかもしれない。
なんというか、自分が知っている(自分ができる)基準とは違う動きで生じるものをきちんと認識することがカギなのかもしれない。
情報量がかなり多い世界となる。そんなに多量なものは処理しきれない。処理しきれないものはかなりの分量を切り捨ててきたように思う。
切り捨てるというのは、認知して理解した上で取捨選択しているものではない。存在するのに「無いもの」にしている。
黙殺をしているような状況である。
この「あるのに切り捨ててる」状況はかなり癖のようについてしまっているように思う。
実際、多量な情報には処理が追い付かずにストップしてしまう。もっと適度なラインを意識していないと、切り捨て過ぎか認知しすぎの状況からは脱せないのかもしれない。
この脱せなさは、なんか意識の所在がおかしい面もあるのかもしれない。力点を変えないとどうにも乗り越えられないかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?